城郭名:三城城(みしろじょう)

住所 :長崎県大村市三城町

城主 :大村純忠

利用年:永禄七年(1564)ー慶長3年(1598)

駐車場:富松神社の駐車場を利用可能

 

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最近、足を伸ばして長崎の城に訪問しました。

長崎は地形上、小勢力が群雄割拠した土地ということもあり、小規模な城館が多く、特徴があって面白いです。

 

そんな中でも比較的大きな勢力を持ったのが、大村氏です。

 

特に、戦国後期の当主大村純忠は、キリシタン大名として有名です。そして、彼によって建築されたのが、三城城です。

 

 

  歴史

大村氏は、藤原純友討伐に功績があり、それにより当地に下向したとの伝説があるようですが、本来は土着豪族であったとされています。

 

15世紀の後半に有馬氏との合戦で一時領土を失陥したこともありましたが、一貫して当地を支配し続けました。

 

また、大村の領主は、戦国期になって転々と領土を変えています。そんな中で、大村純忠も自身の居城として三城城を築きました。

 

大村氏の居城

(薄い水色は純忠家督継承時点の直轄地)

 

 

しかし、なぜ三城城を築く必要があったのでしょうか? 

その背景には、大村純忠のいびつな家督継承の結果があります。

 

 

家督継承

天文十九年(1550)年、大村純忠は家督継承をしました。

しかし、その継承は極めていびつでした。

 

何故かというと、前当主の大村純前には実子がいたにも関わらず、わざわざ有馬氏から純忠を養子として取り、家督継承をしているためです。

 

元々、戦国中期ごろから大村氏と有馬氏は関係が深くなっており、数代の婚姻を繰り返していました。

当時、有馬氏は自身の勢力を拡大しており、大村氏を一種の傀儡政権とするために、養子を送り込んだとされます。

大村家のもともとの実子は、佐賀の武雄の後藤氏の養子となり、後藤貴明と改名し、天文十四年(1545)に当主となりました。

 

このいびつな相続は、のちのち大村家と後藤家の対立の種につながっていきます。

 

 

キリスト教との接触

大名としての大村氏は、自身の直轄領をわずかしか持っておらず、政治を複数人の老臣と協議して決める、一種の連合政権のような形でした。

 

また、純忠は有馬氏からやってきたよそ者であり、家内の立場も低く、さらには、周囲の勢力の脅威もありました。

そのような状況の中、

生き残り戦略として純忠はキリスト教に接触します。

 

 

キリシタン大名として有名な大村純忠ですが、

元々は非常に打算的な考えでキリスト教に接触しようとしていたようです。

 

 

横瀬浦開港と、自身のキリスト教改修

大村純忠がキリスト教と接触したのは、

永禄五年(1562)の事です。

 

元々、イエズス会およびポルトガル人は貿易港として平戸を使用していましたが、日本人とのトラブルのため、別の貿易港を探していました。

 

そのような中で、大村領の横瀬浦が候補に上がりました。

 

宣教師アルメイダが、純忠のもとに開港の交渉に訪れますが、この際純忠は開港を快諾し、さらに免税も約束します。

 

 

元々は、海外との貿易で利益を得るという打算的な目的があったようですが、純忠はキリスト教の教義にも興味を持ちます。

 

そして翌永禄六年(1563)には、自身と家臣団がキリスト教に改宗します。

 

また、家臣団が改宗すると、その家臣も改宗し、

という形で芋づる式に宗徒が増えていきました。

 

このように、領内でキリスト教信者を増やすことで、

家臣団の統制も図るという目的もあったようです。

 

 

横瀬浦炎上

純忠はキリスト教に改宗しますが、

その信仰ぶりは、あまりに急進的なものでした。

①改宗翌日にこれまで崇拝していた摩利支天を燃やす

②寺社仏閣の焼却

③義父大村純前の像(位牌)の焼却

などの行為を行ったことで、

仏教徒および、有馬氏を嫌う家臣からの反発を得ることになりました。

 

これにより、一部の家臣が本来の血統である、

武雄の後藤貴明と接触するようになります。

 

後藤貴明はこれに呼応し、偽計を用います。

宣教師も一網打尽にしてしまおうと、「自身も改宗したいので、宣教師を領内に派遣してほしい」と純忠に連絡します。

純忠はこれを承諾し、横瀬浦に使者を派遣します。

 

この時、たまたまみな宣教師が病気であり、

使者は一時大村領に帰国しようとしますが、後藤勢がこれを襲撃します。

これに呼応して、大村領の家臣も、領主の館を襲撃しました。純忠は、かろうじてこの危機を逃れ、一時多良岳に逃亡します。
 

また、横瀬浦もこの混乱の中で、キリスト教を嫌う豊後商人に燃やされてしまいました。

 

 

 

三城築城

このような事件はありましたが、

翌永禄四年(1564)には、純忠は領内に戻ってきます。

しかし、その支配力の回復にはさらに三年を要しました。

 

このような反乱に懲りた純忠が防衛のために作ったのが、

三城城です。

 

元々東側には、城下町がありましたが、

純忠はここに接続する丘陵上に三城城を取り立てました。

 

なお、発掘調査ではそれ以前の遺物も出土しており、
原型は過去にも存在していたことが考えられます。

 

 

写真だけだと分かりずらいですが、国土地理院地図の色別標高図を見てみると、三城城が丘陵上に築かれていることがよくわかります。


 

そして、その後はキリシタン大名としての城下町が発展していくことになります。

 

特に、永禄八年(1568)には、城下町の中心に御やどりの教会が建立されました。

 

また、三城城内部にも教会が存在したとされます。

さらに、後には城下町と三城城の中間に存在する宝生寺も教会化されます。
 

城下町の形成イメージ(googlemapより)

※新修大村市史を参考

 

三城七騎籠

この三城城の防御力が発揮されるのは、

築城から八年後の元亀三年(1572)の事です。

この時、武雄の後藤貴明がまたも大村領に侵攻してきます。

更に、この時は平戸の松浦氏・諫早の西郷氏も呼応しました。

 

総勢は約1500騎、

これに対し純忠は突然のことで対応できず、7騎の武士とわずかな雑兵で防戦をせざるを得ない状況でした。

 

攻撃側は

・後藤貴明:700騎

・松浦方(大将:志佐源七郎純元):500騎

・西郷方(大将:尾和谷軍兵衛):300騎

 

で、松浦方・西郷方は城下の家臣団の屋敷に陣取りました。

また、後藤貴明は山の手側に陣取ります。

 

この際、大村氏の家臣団が寝返り、後藤氏側についています。

 

布陣のイメージ

 

これに対し、純忠側はわずかな軍勢を、

大手口・搦め手口・純忠防衛隊の3手に分けます。

 

また、非戦闘員に対しても槍やなぎなた、旗を持たせて城内を走り回らせ、軍勢が多くいるように見せかけます。

 

さらに、寝返った家臣団を必死に説得します。

家臣団は最終的に翻意し、自身の屋敷に籠り中立化します。

 

 

布陣の翌日になると、三城城攻めが始まります。

 

西郷方は大手口を攻撃、大手の橋詰で攻防戦を行います。

 

松浦方は、南側の堀を攻撃します。

 

こちらは純忠が直接防衛し、木や石、灰・砂・米ぬかなどあらゆるものを投げつけ、ひるんだところを弓鉄砲で狙い撃ちして、撃退しました。

 

後藤貴明は、城下町の家臣団が動かないことを不審に思い、攻撃に参加せず、状況を注視しました。

 

 

しかし、あまりに多勢に無勢。

一時、純忠は最後の酒宴を実施するに至ります。

 

そんな中、家臣の一人富永又助が、

西郷勢になりすまし敵の陣所に侵入します。

 

そして、大将の尾和谷軍兵衛に切りかかり、

深手を負わせて逃亡することに成功します。

 

 

大将が深手を負うという混乱の中で、

攻撃側は機を失しました。

 

北側の郡村・萱瀬村の給人たちが、続々と純忠勢の援軍として駆けつけてきたのです。

 

これにより、後藤貴明は自身の不利を悟り、撤退しました。

この際、城下町の御やどりの教会も炎上してしまいました。

 

後藤勢・松浦勢は逃げ切りますが、

深手を負った、尾和谷軍兵衛は討死してしまいます。

 

 

 

このように、実際に戦を経験した三城城ですが、

慶長3年(1598)関ケ原の戦いへの緊張が高まる中で、

新たに玖島城が築かれ、廃城となります。

 

 

  構造

新修大村市史によると、三城城には8つの郭があったとされます。

 

このうち、曲輪Ⅰが本郭(本丸)であったとされ、

大手は城下のあった東側と推定されます。

 

実際に、東側には堀と土塁で区画された長方形の郭が存在します。

 

 

これまで複数回発掘調査が行われており、
 

曲輪Ⅱの南側では二重堀が発掘されるとともに、

掘立柱建物も4棟発掘されています。

また、全国的にも珍しい、タイ産の焼締四耳壺が出土しており、海外との交流の様子が想像されます。


 

ただし、現状の状況はあまりよくありません。

多くの部分が荒れた竹林となり、入れない状況です。

 

入れるのは主に南側の郭です。

 

曲輪Ⅰ

主郭とされる部分です。

現在は長崎県忠霊塔が建っており、大きく改変されていることが想像されます。

 

 

曲輪Ⅰ土塁

南側の一角に、腰の辺りの高さ位の土塁がかろうじて残っています。

記録では、本丸・二の丸を土塁が囲っていたとあることから、当時は全周していたのではと思われます。

 

 

曲輪Ⅴ

元々は曲輪Ⅳ→曲輪Ⅴ→曲輪Ⅰの順で入っていたのだと思われます。ただし現状は竹林化しており、入れません。

 

 

曲輪Ⅰ南土塁

千綿村の住人が掘ったことから、千綿隍と呼ばれます。
三城七騎籠では、松浦勢はこちらから攻撃した?

 

 

曲輪Ⅶ

堀を挟んだ出丸状になっている曲輪。
曲輪Ⅰを防御する目的で構築されたのでしょうか。

 

 

古井戸

これは後世に掘られたものなのでしょうか……?

 

 

曲輪Ⅰ西側空堀

竹林化しており、確実に入れない状態です。
曲輪Ⅲ・Ⅴ・Ⅵはすべてこのような状態です。

 

 

曲輪Ⅱ

現在は畑地化されています。

発掘調査では二重堀と掘立柱建物が検出されています。

 

 

曲輪Ⅲ

入り口しか入れないほどに荒れています。

ここでも発掘調査が行われており、曲輪中央にV字堀が検出されています。

 

元々は複数の曲輪に分かれていたようです。

 

 

東側の切岸

最も高低差がある部分です、

こちらから見ると迫力があります。

 

曲輪Ⅳ

大手といわれる部分です。もともとは長方形の郭でしたが、現在は駐車場になっています。

奥側の木が生えている部分にかろうじて土塁が残っています。

 

 

富松大権現

城内に位置する神社です。

創建は不明ですが、三城城と同年代にはすでにこの地にあったようです。

 

多良岳の下社となり反映し、現在も多くの人が参拝しています。

 

以上です。

 

 

 

  参考文献

1. 外山幹夫著、「大村純忠」、静山社、1981

2.大村市史編さん委員会『新編大村市史』第2巻 (中世編),大村市. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11673624 (参照 2024-01-22)

3. 岡田章雄 著『キリシタン大名』,教育社,1977.12

4. 長崎県教育委員会 2018 『新幹線文化財調査事務所調査報告書8:三城城下跡』長崎県教育委員会

 

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