関西に住み始めて、よく電車を利用するようになったのですが、
いくつか読めない名前の駅があります。
その中でもトップクラスなのは、
「柴島」
しばじま? かと思ったら、くにじま。
なぜ、こうなったのか調べてみたら、
平安時代は「国島、茎島」と呼ばれていたのが転化したらしい……
地名を調べていたら、ここには城があったことも発見しました。
三好長慶が台頭するきっかけになった、
江口の戦い
に関係する城跡らしい。
ということで、今回は江口の戦いと、
その関連城跡(柴島城・江口城・榎並城)について調べてみました。
江口の戦い
端的にまとめると、以下の通りです。
・天文十八年(1549)6/24に勃発
・細川晴元とその家臣の三好長慶との争い
・三好長慶が、細川派の親族、三好政長と戦う
・戦いによって政長は討死、晴元は京から逃亡
・三好長慶が上洛し、京都周辺を抑えた。
この戦いにより、三好長慶が独立を果たし、
織田信長以前の天下人として覇権を握るきっかけとなりました。
この戦いが始まった遠因は、三好長慶と親族の三好政長の対立です。
両者はもともと競合関係にあったのですが、
天文十七(1548)の池田氏の処遇を巡って、対立が決定的になります。
<江口の戦い関連城址と発端>
※地図はgoogle mapより
その後、三好長慶は河内畠山氏の重臣、遊佐長教と手を組み、
三好政長勢を攻撃します。
この時に、三好長慶によって攻撃された城として、「柴島城」が出てきます。
<三好長慶の動向:発生~柴島城攻撃>
これに対抗して、細川晴元も柴島城付近までやってきます。
一度丹波の一庫城に入った後、三宅城(今回は取り上げません)に入ります。
これ以前に、三好政長も三宅城に移動しており、
両者は合流した後、江口に出陣してきます。
これを見た三好勢は「愚人夏の虫飛んで火に入る」とし、
江口の背後に、十河一存勢を布陣させます。
これにより、細川晴元勢は恐れて退却しようとしますが、
三好長慶は、機を逃さず挟み撃ちにし、三好政長を打ち取りました
<合戦当日の動向>
江口の戦い以後、晴元は当時の将軍、足利義晴を引き連れ近江に逃亡します。
その後、三好長慶は永禄七年(1564)に没するまで、
畿内の政権を握り続けることになります。
柴島城
今回、江口の戦い関連城跡として柴島城・江口城・榎並城の三城を取り上げますが、
すべて市街地化・住宅地化しており、
痕跡はおろか、正確な場所すら分かっていません。
その中でも、柴島城は、「かろうじて位置が特定できる」城です。
『図解近畿の城郭Ⅱ』(城郭談話会編)にて、
石川美咲氏が明治初期の地籍図を基に復元しています。
これを基にGoole Mapに落とし込むと、このような感じになります。
<柴島城推定値>
柴島城の西側は明治の淀川改修により、地形改変が進んでいます。
元々は大阪から丹波へ続く「亀岡街道」があり、
柴島城はこれを抑える立地に構築された、方一町(100四方の正方形)の城館だったようです。
また、江口の戦い以後、江戸時代初期に一時的に中嶋藩がおかれ、
藩主の稲葉氏に、柴島城が使用されたという伝承もあります(西成郡史)
現地の様子(地図は国土地理地図Web版より)
阪急柴島駅から行くのが一番近いです。
①柴島神社
元々は柴島城の東側、現在の河川敷付近にあったが、
明治の淀川改修により、現在地に移った。
②城跡碑
昭和三年建立……だが、ここは城域ではない。
柴島との関係から場所を決定した(石川 2015)と思われる。
③薬師堂村の薬師如来
元々淀川東岸に薬師堂村があり、ここにあった薬師堂が移ってきたらしい。
一見、倉庫にみえてしまう……
④柴島中学校
字本丸のほとんどが柴島中学校となっている。
地籍図では学校裏側には水路があったらしい。
⑤土手から城域を望む
おそらく、土手のあたりが昔は、亀岡街道だったのだろう。
ここから城域を望むと、だいたいのサイズ感がわかる。
江口城・榎並城
この2城は、現状正確な場所も特定されていません。
また、江口城には城址碑もない状態です。
ただ、榎並城は同時代に書かれた軍記物である「細川両家記」に、
「よき城」と記載されており、当時の人々には名城として見られていたのかもしれません。
江口城
地下鉄今里線、瑞光四丁目駅から歩くのが近いです。
「東淀川区史」によれば、現在の大隅神社の辺りとされます。
当時は江口の東側は川となっており、対岸への「渡し」がありました。
そのため、江口城は渡河点を抑える位置に築かれたと思われます。
江口の君堂
城跡ではありませんが、有名な場所です。
平安時代に、平資盛の息女妙の前が草案を築いたのを開基とします。
大隅神社
城跡の伝承地?
「摂津における中世城館の調査」によれば、江口城で祀られていた狛犬を、後年ここに移したとあります。
どれでしょう?(本堂の狛犬はすべて年号が明治でした……)
榎並城
大阪メトロ谷町線、野江内代駅の近くです。
以前取り上げた野田福島城と同じように、周辺が湿地帯にある中で、
ここだけ少し小高い地形になっていたようです。
榎並小学校裏側に城址碑があります
参考文献
- 石川美咲「柴島城」中井均監修『図解 近畿の城郭』Ⅱ, 戎光祥出版, 2015
- 「柴島城」中西裕樹. (2015). _大阪府中世城館事典_. 戎光祥出版pp124-125
- 「柴島城」 平井聖 [ほか]編修『日本城郭大系』第12巻,新人物往来社,1981.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12208284 (参照 2023-11-05)pp185-186
- 本間信治 著『生きのこる上方の地名』,月刊ペン社,1986.4. [国立国会図書館デジタルコレクション](https://dl.ndl.go.jp/pid/9571570/1/118)(参照 2023-11-05)pp228
- 「足利季世紀天文十八年条」大東市教育委員会 編『大東市史』史料編 1,大東市教育委員会,1984.3. 国立国会図書館デジタルコレクション [国立国会図書館デジタルコレクション](https://dl.ndl.go.jp/pid/9575525/1/154) (参照 2023-11-05)pp268
- 「細川両家記天文十八年条」『摂津市史』史料編 1,摂津市,1984.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575533 (参照 2023-11-05)[国立国会図書館デジタルコレクション](https://dl.ndl.go.jp/pid/9575533/1/210)
- 福知山市史編さん委員会 編『福知山市史』第2巻,福知山市,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575034 (参照 2023-11-05) [国立国会図書館デジタルコレクション](https://dl.ndl.go.jp/pid/9575034/1/416)
- - 大阪府西成郡 編『西成郡史』 第1編 第2編 第3編 第4編 第5編,大阪府西成郡,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950864 (参照 2023-11-05)
- [柴島(くにじま)城について知りたい。 | レファレンス協同データベース](https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=柴島&kwbt=柴島&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000304448)
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川端直正 著『東淀川区史』,東淀川区創設三十周年記念事業委員会,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3009352 (参照 2023-12-03)
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大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959908 (参照 2023-12-03)
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並河永 著 ほか『五畿内志』下巻,日本古典全集刊行会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179444 (参照 2023-12-03)
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『摂津における中世城館の調査』大阪府教育委員会, 2022
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中西裕樹 著『戦国摂津の下克上 : 高山右近と中川清秀 (中世武士選書 ; 41)』戎光祥出版, 2019.8
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天野忠幸 著『三好長慶 : 諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)』ミネルヴァ書房, 2014.4