正保国絵図を基に、膳所城の今昔を見て歩いていきます。

今回は、城郭の中心部を見ていきます。

  城郭主要部へ

高低差は堀跡の痕跡……?

南大手門から城内に入りますが、現在は団地化されており、当時の様子をうかがうことはできません。

絵図を見ると、侍屋敷と書かれているため、家臣団の屋敷があったようです。

 

幕末期には、「勘定所」や「評定所」、「郡役所」があったようです。

 

主要部分は堀で囲まれていたようで、場外側と城内側で建物に高低差があります。

これが、堀跡の痕跡のようにも見えます。

 

 

 

区画化された団地の秘密

南大手門周辺は、団地化されており当時の姿はうかがえませんが、

地割にはその痕跡が見て取れます。

 

団地群は、城郭とほぼ同じ形で区画されていますが、

 

これは廃城すぐの明治18年(1885)6月に膳所監獄として利用され、

昭和43年(1968)の団地造成まで、刑務所として利用されていたためです。

(新修大津市史第五巻p156-157, 新修大津市史第八巻p576)

 

比較的広い区画が利用されたため、城跡の区画が残されたようです。

 

(大津生涯学習センターの裏手に、幕末時の城域との比較図があります)

 

 

住宅街と化した北大手門側

北大手門側は、南大手門よりも痕跡がありません。

 

こちらは、住宅街として使われたため区画も残らなかったようです。

堀の高低差などもわからない状態です。

 

 

 

 

凶悪な防御ラインだった、馬出し構造

絵図を見ていると、本丸の手前に馬出が設けられていたようです。

現在は、完全に破壊されており、マンションになっています。

 

この馬出は、北側(京都側)への防御指向性が高く、

城内にはS字状の通路を進まないと入れず、さらに北の丸との挟撃を受ける可能性もあります。

 

本丸に至るまでに、3回も敵に背中を向ける必要があり、

戦国後期の発達した馬出し構造が見て取れます。

 

 

 

発掘調査で位置が判明した北の丸

本丸北側には、島嶼状に突き出た「北の丸」があります。

この場所は、平成25年(2013)に湖岸道路建設に伴い発掘調査が行われました。

 

この発掘調査では、北の丸の南側と北側に石垣を検出し、当時の北の丸のラインの一部が判明しました

 

↓から、発掘調査報告のパワポ資料が閲覧できるので、詳しくはこちらをご確認ください。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会発掘調査現地報告会資料.pdf

 

なお、北の丸南側については、現状も本丸と分離しており、曲輪の際を確認できます。

平成26(2014)に立ち合い調査で、ここでも石垣が発掘されましたが、廃城後に形成されたのでは? と指摘されています。

 

 

 

ついに本丸へ……

湖岸道路を渡ると、膳所城の復元城門が見えてきます。

この城門(というか、膳所城公園全体)についての詳細は不明ですが、移築城門などではないようです。

 

この部分は、絵図では「二の丸」となっていますが、

寛文2年(1662)の地震の後に大幅に形態が変わり、本丸と二の丸が一つになりました。

 

その後は、畑地化した後、大正時代には金波楼という旅館となり、昭和30年ごろに公園化したようです。

(膳所城北の丸発掘調査報告書p93)

 

(絵図を見ると、西側一面に二重多聞櫓が設けられている。さぞ壮観な光景だったのだろう)

(二の丸{寛文2年後}付近、浄水場になっており立ち入りはできない)

 

 

二重多聞櫓で囲まれた、本丸中心部

本丸から接続された橋を渡って、湖岸から本丸を望みます。

ここからは、膳所城の先端が突出しているのがよくわかります。

 

絵図を見ると、4重天守、3つの2重櫓、1つの3重櫓が、

2階建ての多聞櫓で接続されているのが見て取れます。きわめて厳重な作りです。

 

当時の姿が、のこっていたらなぁと思います。

 

なお、このうち真東の二重櫓は廃城後「飛竜閣」という料亭となり、

現在は少し膳所城から離れた、茶臼山公園に移され、芭蕉会館として利用されています。

 

 

(芭蕉会館、草が生い茂っていていい写真が撮れないが、改修されて民家っぽくなっている)

 

 

瀬田の唐橋は見えません・・・・・・・

膳所城を表す有名な歌として、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠 水に映るは膳所の城」というものがあります。

 

瀬田の唐橋からは、膳所城が見えたようですが、

反対に膳所城からは、瀬田の唐橋は見えるのでしょうか。

 

望遠で写真を撮ってみましたが見えません・・・・・・・

 

鉄道橋と、国道1号の瀬田川大橋に阻まれてしまいます。

あの先に唐橋があるのですが・・・・・・・

 

 

 

4重の天守の痕跡

膳所城には天守があり、絵図にも描かれています。

 

天守については、昭和32、33(1957、58)に発掘調査が行われており、

3辺の石垣と礎石が発見されています。

 

本丸全周についても昭和58に発掘調査が行われており、

各櫓の位置についても推定されています。

 

本丸については突出した形のせいか、明治の廃城の際にも「……毎々風波ニ毀壊セラレ

修理ノ為メ連年莫大ノ国用ヲ費シ候……」とあり、維持にはかなり苦労したようです。

(新修大津市史第4巻(近世後期)p511)

(大津市膳所支所:天守と同じ高さといううわさがある……)

 

 

 

総括

これまで、5回にわたって膳所城下町を歩き回ってきました。

 

開発によって、当時の姿は失われていると思われていますが、

歩いてみると意外と痕跡が残っており、面白いです。

 

特に、東海道についてはほぼそのまま経路が残っているので、

城下に街道が巧みに取り込まれている様子が見て取れます。

 

膳所城は、移築城門が様々な場所に点在しているので、

今度は、そちらについても探訪できればなぁと思います。