正保国絵図をもとに、膳所城の城下町を歩いていきます。
今回は北側、大津口門~北大手門までを紹介します。
大津口門~北大手門へ
北の玄関、大津口門
大津市街地から約1kmほど歩くと膳所城の城域に至ります。
ここは大津口門で、道路のクランクから当時の道筋を見て取ることができます。
大津側からは、南に1折れし、東にもう1折れして城内に入っていきます。
当時、西側は琵琶湖に接しており、今よりは風景がよかったのだと思います。
由緒は鎌倉、石坐神社
大津口門をくぐり、東海道を東へ進むと、「宮」と書かれた場所に至ります。
ここは石坐神社です。
膳所城築城以前の文永三年(1266)より、当地に座しているようです。
河川を利用した変形枡形?
更に東海道を進むと、第二の関門に突き当たります。
絵図では、土橋を越えて、島状となった空間に至り、再度土橋を渡って城内に進む構造となっています。
歩いてみると分かるのですが、この島状の部分のみ少し標高が高いです。
そのため、坂を上って、また下ることになります。
もともと自然堤防となっていた地形を、防御施設として活用したのでしょうか。
(一旦のぼって)
(また坂を下る)
絵図では侍屋敷となっているが……
更に進むと、立派な門が見えてきます。
これは「膳所の六門」の一つ、「村松家長屋門」です。
(膳所の六門については、信頼できるソースを見つけられませんでした……)
現在は、響忍寺となっていますが、宝暦元年(1751)までは家老村松氏の屋敷があった様です。
絵図が描かれたのはそれ以前の正保、慶安期(1644~1651)なので、「侍屋敷」として書かれています。
石田三成伝説のある、和田神社
響忍寺から東海道を進み、南に折れるとまた「宮」と書かれた場所に至ります。
これは和田神社で、白鳳時代の創始とのことです。
境内には、関ヶ原の戦いの跡石田三成が縛られて休息した、とされる銀杏の木が残ります。
また、表門は藩校遵義堂の表門と伝わります。
(奥に僅かに見える門が、藩校遵義堂の門とされる)
本多氏ゆかりの縁心寺
更に進むと、絵図に「寺」と記載された場所に至ります。
ここは、本多氏の菩提寺「縁心寺」です。
慶安四年(1651)の、本多氏移封時に三河西尾から移ってきたものとのことです(新修大津市史第3巻p314)
寺の軒丸瓦は本多家の立葵紋となっており、
境内には、歴代本多氏の墓所が築かれています。
総石垣造りの北大手門
縁心寺から少し戻って、東側の通路を進むと、北大手門に至ります。
現在も折れの痕跡が残っており、南に1折れし土橋をくぐって、城内に入る構造を見て取ることができます。
門の構造自体は、南大手門と同じですが、
絵図からはこちらのみ総石垣造りとなっていることが見て取れます。
(西大手門、南大手門は門付近は石垣造りですが、他は土塁となっています)
北側だけが石垣作りになっている(緑色は土塁)
大津口から歩いてきましたが、勢多口よりも防御が固いように感じます。
大坂方からの攻撃を防ぐ、という築城背景を考えても、
京都側への防御志向性が高かったのではと思います。
次回は、城郭中心部を見ていきます。