宇部大空襲、学校が焼かれた日 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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昨日、多世代ふれあいセンターで、76年前にあった宇部空襲の上映会が2時間あり母と妻と私3人で行って来ました。

今回の映像は、米国陸軍の爆撃戦果に対する調査団が、終戦半年後に宇部に来て撮影した映像でしかもカラー映像という初めてみる映像で非常に前段階から関心がありました。調査団は、1000名近くの大所帯であり、このような検証を全国で8ケ所実施したそうです。

1945年の7月2日の夜中に爆撃は行われ260名近くの死傷者が出ています。市内中心部、工場地帯がことごとく狙われ爆撃にあっています。また、宇部空襲では、原爆模擬爆撃3発を落としており、その投下地点までわかっています。

原爆を落としたテニアン島発のB29が戦隊をくんで100機。その距離2500キロ。爆撃の飛行ルートも明快に記録されています。わずか20秒程度の爆撃をするため、2500キロの距離から飛来し、わずか200メートル上空からの攻撃だったそうです。

貴重だったのは、市内で家を焼かれた方達が多数来られていて、直接その方達からその時の話を聞くことが出来ました。これだけ身近に戦争の話を聞けたのは初めてでした。

自分が暮らしてる場所でしかも場所が特定出来、空襲を受けられた生の声を聞くことが出来、かなり正確なイメージを持つことが出来ました。非常に貴重な機会を頂きました。

ハーグ陸戦条約では、一般市民の攻撃は禁止されているのに、その条約を破り無差別攻撃を実施し、しかも戦果が悪かったからという理由で、検証調査団を派遣し冷静なデータ収集と解析。どれだけ冷徹なのかと思うほどです。

わずか76年前の出来事です。カラー映像は、調査団のフィルムがカラーでした。