今でも、不発の機雷が関門海峡の海底から見つかっている。
また、海峡を封鎖する為に機雷を投下したと同時に、戦争継続の無意味さを説得するビラも散布されていた。しかし、亡き母親によると、拾って読まないように命令されていた。
交通の要衝、関門海峡
米軍の機雷投下作戦では、関門海峡に高い優先度が与えられた。それにはまず外洋から内海に向かうタンカーや商船などの航行を阻む目的があった。さらに、内海から沖縄に向けて航行する日本の艦船の動きを封じるという目的もあった。
1945年(昭和20)3月27日に始まる機雷投下作戦は、戦略爆弾だけでなく、沖縄作戦支援という戦術爆撃的な側面を併せ持っていた。写真は1945年(昭和20)5月5日の関門海峡。B-29撮影。(米国立公文書館)
機雷敷設計画図
1945年(昭和20)3月27日の機雷投下作戦の響灘側の計画図。図の下方が北九州の工業地帯で、右上が下関。音に反応する音響機雷と磁気に反応する磁気機雷を混投する計画だった。(米国立公文書館)
関門航路(南東水道区) 水深13m 引き上げ作業(4枚とも) 1989年(平成元)10月19日10時 地底感応磁気機雷(0.45m×1.7m) (海上自衛隊,下関基地隊資料より)
機雷を投下するB-29
落下傘をつけた機雷を投下するB-29、尾翼のマークは、第313航空団第9群団所属のB-29であることを示す。実際の機雷投下はほとんど夜間に行われたので、この写真は訓練中に撮影されたものだと考えられる。(米国立公文書館)
機雷敷設の脅威を伝えるビラ
シリアルナンバー2096番のこのビラの発行目的に「軍の指導部に対する国民の怒りを発展させるため」とある。
食料の危機的な状況やB-29による本土水域への機雷敷設によって、危機意識をあおっている。(マクスウェル空軍基地歴史資料室)
(下関空襲の全貌より)(彦島のけしきより)