下関西高等学校あたりの散歩 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

① 下関西高等学校のあたり、在学当時の建物である築50年近くになる理科棟を中心に撮影

右手: 旧正門

理科棟裏、かつて食堂があった

運動場、右上が忠霊塔のある戦場ヶ原公園

右: 理科棟

遠景、門司の風師山が見える


② 下関商業高等学校の正門

正門

学生寮の名前の千畳原が戦場ヶ原の旧名


③ 西高から戦場ヶ原(千畳原)公園へ

左が西高と下商の正門、右が戦場ヶ原公園へ

西高の裏門

戦場ヶ原公園への登り道

忠霊塔

戦場ヶ原(千畳原)公園の広場


④ 戦場ヶ原公園

戦場ヶ原公園は、国鉄幡生駅と後田バス停の中間の小高い丘に位置する。

戦前に、ドイツ人メッケルが設計した市内で最も大きい規模の要塞

明治24年完成: 工事期間(1200人があたり2年間)

壕、地下道、地下室(800人収容可)、飲料水の貯水所等が数ヶ所あり、我が国の要塞のモデルとして陸軍大学の学生が見学にきていたという。

昭和40年から山口県下関土木事務所によって公園化がすすめられた。

敷地内に「忠霊の塔」、「戦傷の碑」「戦災殉難者の碑」等があり、毎年戦没者の慰霊祭が行われている。


忠霊塔

昭和12(1937年)に始まった日中戦争において、国に命を捧げた人々の至純な愛を慰めるために忠霊塔建立の気運が全国的に高まる中下関市においてはその場所として市の中心に位置し全方位から拝することができる旧下関重砲兵連隊の保塁であったここ戦場ヶ原が早くから選定されていました。

昭和17年(1942)3月軍、官、民一体となってこの忠霊塔は建立されました。

過去数次の戦争において、国難に殉じた郷土出身の4800余名の戦没者を追悼し英霊の遺志を受け継いで戦後50年を経過する今恒久平和への誓いをあらためてここに刻みます

平成7年(1995)8月 下関市連合遺族会


戦傷の碑

1937年から1945年にかけて8年間くりひろげられた日中戦争及び太平洋戦争では、下関市からも多くの人が出征し約4200人の方が戦没され、また約1000人の人達が戦傷者となる痛ましい結末を生じました。

この戦場ヶ原の地はかつて陸軍の要塞地で兵士たちでいっぱいでしたが今は市民の憩いの場として開放され平和な公園になりました。

私達傷痍軍人会及び妻の会は、互いに励まし力を合わせ、このゆかりの地に平和祈念の象徴として戦傷の碑を建立いたしました。

これから先悲惨な戦争を繰り返さないようそして二度と戦傷の痛みで苦しむ人々が出ないよう世界中の人々と心を合わせて祈念いたします。

1981年2月 下関傷痍軍人会