もちろん、北九州の吉野ヶ里などを中心とした地域には呉から渡来した渡来系弥生人が居住していた。彼らの渡来時期は、斉から土井ヶ浜に渡来した弥生人より100年早かった。ちなみに、紀元前284年に斉は秦との戦いで大敗したが、この時期と土井ヶ浜への渡来時期がだいたい近い。
春秋戦国時代、秦の始皇帝の時代を過ぎ、紀元前207年には秦も滅び、覇を競い合った秦と斉は消滅した。彼ら遺民は共に日本列島に渡来して邪馬臺国につながっていく。
参考
② 中国の史書に「倭人は太白の後裔である」との記事があるため日本列島の倭人(日本人の直接の祖先)は、呉を建国した太白の後裔であるから、日本民族は長江流域の呉の人間が渡来して形成されたに違いない―という見解がある。
その史書は、『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の太宰府天満宮の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。
その部分は次の通り。
<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>
江南地域に呉、現在の江蘇省南部から上海あたり、吉野ヶ里遺跡の渡来系弥生人の故郷
③ 斉の第5代湣王は宋を滅ぼした。しかしその裏では、燕の将軍楽毅主導による諸国連合の策謀があった。紀元前284年(土井ヶ浜遺跡の人骨の渡来時期あたり?)、楽毅に率いられた燕・秦・趙・魏・韓の連合軍により斉の軍は大敗した。楽毅により首都臨淄が陥落させられ、湣王は亡命先で殺された。楽毅により滅亡寸前にまで追い詰められるも、田単の活躍により襄王が即位し、何とか斉は復興した。とはいえ国力は激減しており、かつてのように秦と天下を争うのは無理になった。
その後、斉は秦によって滅ぼされてゆく他国を傍観する政策を取った。この政策により束の間の平和を手に入れることができたが、最後には孤立無援の状態で秦と向かい合うことになった。紀元前221年に秦王政によって派遣された将軍王賁により、最後の王・建は捕えられ、斉は滅亡した。結果的に斉は、秦を除いた「戦国七雄」最後の一国となった(wikiより)。
④ 斉の滅亡後、秦が中国全土を初めて統一した。始皇帝が亡くなった後、紀元前207年に滅亡。この秦の末裔が朝鮮半島に移動して辰韓と言う国を作った。
この秦の末裔がこの時期あたりから、新たに興った漢に圧迫されて日本列島にも渡来するが、秦と斉の因縁から斉の末裔が山陰地域を経由させて日本に入植させたと推定される。ちなみに、斉人は西欧人のミトコンドリアDNAを持っていたし、秦氏は中東人と同じY遺伝子を持っていた。
⑤ 蚕種渡来の地記念碑が山口県下関市の忌宮神社境内にある。養蚕そのものは既に北九州の弥生人が行っていたが、秦の始皇帝の子孫が本州最西端に渡来したことに意味がある。




