内部右手
勝手口
参考
① 孫文蓮 長府庭園で開花 /山口
毎日新聞
下関市長府黒門東町の長府庭園に植えられているスイレン科植物「孫文蓮(れん)」の花が咲いた。最初の開花が確認されたのは24日で、昨年より3日早い。
孫文蓮は中国の革命家、孫文(1866〜1925)が下関市長府の海運業、田中隆から支援を受けた返礼として中国の古代蓮の種を贈ったのが始まり。種から発芽したハスが1994年、長府庭園に植えられた。
孫文蓮は午前5時ごろにつぼみが開き、昼前には花が閉じる。花は4日間かけて直径25センチ程度まで大きくなる。開花する株が増える7月中旬ごろから見ごろを迎えるという。
長府庭園では孫文蓮の早朝観賞会などを予定している「孫文蓮まつり」を7月16〜24日に開催する。問い合わせは長府庭園(083・246・4120)。【仲田力行】〔下関版〕
下関市の長府庭園には7月中旬に花をひらく「孫文蓮」があります。大正・昭和にかけて下関市長府に田中隆というお金持ちが住んでいました。豪邸はその一部が長府黒門町に遺っています。
孫文が辛亥革命の資金を日本で募ったとき、日本の富豪数人が巨額の献金をしています。田中隆はそのひとりです。孫文は下関にきて田中に会い、感謝のしるしに中国普蘭店の泥炭地から出土した2千年前の蓮の実を4つ、祝儀袋にいれて贈りました。田中の死後、大賀一郎博士の手によって発芽、みごとな花を咲かせました。これを皇居の道灌堀や奈良の薬師寺に移植、「孫文蓮」と命名され、のちに中国南京の中山公園に寄贈されました。長府庭園のそれは南京からの株分けです。
「孫文蓮」は、北京の中山公園にもあります。これはわたくしが1972年(昭和47)に訪中したとき、田中隆の子息から依頼されて寄贈したもので、その後開花したしたとの報告があり、当時の人民日報でも紹介されました。田中隆のことは拙著『海と西洋館』(筑摩書店)に書いております。
ところで9月4日付新聞によると、香港で「孫文と梅屋庄吉展」が催され、長崎市長らも出席しています。長崎には梅屋庄吉の銅像もできて「日中友好」の励みとしているようです。
わたくしが言いたいのは、梅屋におとらず孫文に巨額の献金をした人物は、山口県下に2人もいます。田中隆のほか久原房之助(萩出身・日立製作所の社祖)がいます。やはり当時のお金で総額300万円にのぼる献金でした。久原は孫文の受取証を保存していたので、東京裁判にA級戦犯として出廷したとき、それを提出して放免されています。
山口県下には田中隆も久原房之助も、まだ銅像を建ててもらっていませんし、これら大先輩を「日中友好」に役立てようという発想も生まれていません。このご両人はむろん地元にたいしても巨額の寄付をしています。長州人といわず現代人はなべて忘恩の徒ですかねえ。(古川 薫)
長府庭園に咲く孫文蓮は有名だが、その人、田中隆は下関市民に広く知られてはいない。田中隆(1866~1935)は長崎生まれであったが下関で田隆汽船を設立し、大戦を背景に欧州航路に5隻の貨物船を持つ船成金となった。彼は孫文を支援して300万円(現在約30億円)の資金提供、長府丸(ドイツ製・1500トン)を提供した。孫文はやがて革命を成就させたが、田中隆は大戦後の不況の中で破綻を迎える。彼が長府黒門に建設していた西洋館は豪華な建物であったが内装を残して中止となり、そのままの姿が1969(昭和44年)まであった。孫文が田中に手渡した蓮の実4つが田中の御子息より高名な大賀博士に寄贈され、その内の一つが開花して、市内の長府庭園で見ることが出来る。脱亜入欧の時代にあって、アジアとともに欧米に対抗しようと全面的に応援した宮崎滔天らと並ぶ当時の日本の義人の一人であろう。
④ アレクサンダー・ネルソン・ハンセル(Alexander Nelson Hansell、1857年10月6日-1940年、wikiより)
明治21年に日本へ渡る。川口居留地18番地の神学校で英語教師を務めた後、建築家として活動することになる。最初期に依頼されたのは同志社大学理化学館(重要文化財)の設計であった。さらに神戸外国人居留地において社交クラブユニオンクラブのクラブハウスを設計して以降、同居留地内、さらには周辺の雑居地において建築物の設計を数多く手掛けた。第一次世界大戦に一人息子のケネスが招集され戦死すると失意の日々を送るようになり、終戦後の大正8年に中国漢口へ移住し、さらにモナコへ移り、同地で没した。兵庫県神戸市中央区の山本通に現存する彼の自邸は、シュウエケ邸の名称で一般に公開されている。
⑤ 江戸時代の長府の絵図で黒門東町あたりを見ると毛利伊織の屋敷となっている。
⑥ 田中隆の写真と経歴









