過去から学ぶ,自分を見る,そしてその後は・・・・ | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1
私は,先に,
聖なる言葉,信仰が血肉化した「精神」,釈迦の「自灯明,法灯明」
のタイトルの記事を書きました。
これに関連して,私が考えたことを書きます。

2.
私は,次の記事で,私の持つヴィジョンを提示しました。
それは,私のオリジナルでもなんでもなくて,フランクルのヴィジョンを私なりに理解し(私の理解の及ぶ範囲で),共感し,私なりの考えをほんの少しつけ加えたものです。

メッセージボード変更のお知らせ~「われわれ」の「願い」のヴィジョンとともに

このヴィジョンの中で,私は,次のようなことを指摘しました。

 そのような人,人,人の「願い」の成功と挫折が過去にしまいこまれていて,そういう過去を背負って私という個は関わりの中で現在を生きる。 

 私は,歴史から学ぶということは,とても大切なことだと考えています。
 人類の歴史に学ぶということ,「精神」が過去にしまいこまれた歴史。

 人の愚行もしまいこまれた歴史。


 その人の歴史は,ただただ愚行があり,気づきがあり,また愚行がありと,それだけを繰り返してきただけなのか・・・・・

 それとも,跛行し,螺旋を描きつつも,積み上げてきたものがあるのか・・・・・

3.
 大学生のころ,第二外国語がドイツ語で,たまたま,ヴァイツゼッカー大統領(当時)の演説を文章に起こしたものが教科書でした。当時,ほぼリアルタイムでした。

 大学生のころ,私は,落ち込みの時期で,授業はほとんど出ていませんでした。
 他方,語学単位は留年に直結しましたので,蜂の巣を思わせる3畳の部屋が並んだ石川県の学生寮で,冷房もない猛暑のなか,辞書を引き引き,そのヴァイツゼッカー大統領(当時)の演説を起こしたドイツ語の小冊子を読み進めていました。
 読み進めていくうちに,そのうち試験対策という意味は薄れていきました。
 ドイツ語を母語としない私にも感じられる格調,謙虚さ,気高さにうち震えて,辞書をひきひき,読み進めて,時に朗読し,噛みしめ,読み進めていました。
 ヴァイツゼッカー氏の演説,日本では,『荒れ野の40年』という題で邦訳が出ております。
 ヴァイツゼッカー氏の言葉,それもまた,過去にしまいこまれた「精神」となりました。
 過去にしまいこまれながらも,現在の「われわれ」を照らす「精神」です。

Arenono40nen



4.
 さて,過去のしまいこまれた「精神」,言葉・・・・・
 書として残り読み継がれていったもの・・・・・
 埋もれていき,そっと再発見の機会を待っているもの・・・・・

 書としては残らず,語り継がれてきた言葉・・・・・

 聖典,仏典
 史書
 哲学,思想,信条等についてのさまざまな書
 科学に関するさまざまな書
 詩,小説,戯曲・・・・・文芸の書
 故事,それにちなむ格言,ことわざ・・・・

 神話,伝承,民話,祝詞など・・・・語り継がれてきた言葉

5.
 最近,私は,「正しく見る」,「正しく考える」,「正しく語る」ということをさかんに言うようになりました。
 釈迦の八正道の最初の3つ。深淵な意味を,おもいっきりラフに単純化して使っておりますが。

 「正しく見る」といったとき,私は,このようなことを考えます。

 「見ようとする私自身が歪んでいないか」

 人という存在は,独自であり,かつ一回限りのものです。
 連続性を背負いつつ,「いま・ここ」にいます。
 ですから,そういう「私」が物事を見ておりますので,そこには当然,「私からの視点」というものが入ります。
 物事を「正しく見る」と言っても,見る人の視点の限界,偏見はあります。
 なお,ここでは,「限界」,「偏見」という言葉にマイナスのイメージを付与しておりません。事実としてそうだということです。

 このように,「見る」という行為自体に,すでに,「私」のありようが入り込んでいるのですね。

 それでもなお,私は,「そういう私がどういう私なのか」を自問するのです。

6.
 反省とか自己省察とか,いろいろな言い方ができるでしょう。
 「私が私を見る」ということの意味。
 そこには,「見る私」,「見られる私」がいます。
 自分自身から距離を取り,離れた位置から自分を眺め,自分自身について判断する。
 このことについては,きっと,いろいろな人がいろいろな分析をしているのでしょう。
 突き詰めて考えていくと,頭が痛くなる話になりそうです。
 この記事では,さくっと先に進みます。

 「見る私」,「見られる私」が登場したとして,では,次に「見る私」は,どう進むのか。
 そこにも,それぞれの,いろいろな選択があるでしょうが,ざっくりと二分して考えてみます。

選択1
 「見る私」は,「見られた私」を見た後で,それを「見る私」に引き受けて,どうありたいか考える。

選択2
 「見る私」は,「見られた私」を見た後で,それをばっさり切り捨てた心理機制を働かせて,次の行動を選択する。

7.
 選択2は,少し分かりにくいですね。
 「自己嫌悪」の心理を例に説明しましょう。

 岸田秀氏というお方がおいでです。
 フロイトの精神分析を学ばれた方で,いろいろな本を出しておいでです。
 私は,大学生のころ,岸田秀氏の本をそれなりに読みました。
 『ものぐさ精神分析』シリーズとか。

 そのシリーズの中で,岸田秀氏が,太宰治の『人間失格』を題材に,自己嫌悪ということについてあざやかに分析した小論がありました。
 詳しい論理展開は忘れましたけれど,だいたい,こういう内容です。
 10年以上も前に読んだものであり,私の理解が混じり込み,岸田秀氏が正確に指摘したものとは違う内容になっているかとは思いますが。

 人が「自己嫌悪」をするとき,そこには「嫌悪する自己」と「嫌悪される自己」の切り離しがある。
 「嫌悪する自己」は,「嫌悪される自己」を,嫌悪してみせることで,「嫌悪する自己」の純粋さとか人間的な悩みとかそういものに自己陶酔し,かつ,他者にアピールする。
 そして,「嫌悪する自己」は,「嫌悪される自己」をスパっと自己から切り捨てて,その後は,なんだか違う自己が立ち現れているように錯覚し,他者にもそういう錯覚を与える。
 しかし,「嫌悪される自己」は,そのまま現在の自己に引き継がれている。しかも,そのような「自己嫌悪」の心理機制によって,それが正面から問われることもなく。それに正面から取り組まれることもなく。
 そのため,また,再び,「嫌悪される自己」と同質の自己が飛び出してきて,そして,また,そこで,「自己嫌悪」・・・・切り離し・・・・飛び出し・・・・「自己嫌悪」・・・と続いていく。
 『人間失格』の主人公は,そういう「自己嫌悪」をし続けた人であり,岸田秀氏は,その小説の主人公に,とんでもなく自分に甘く,無反省で,自己陶酔的な,卑しい人間の姿しか見ることができない(実際の岸田秀氏の小論では,もっとグサっとくる厳しい言葉が用いられていたような記憶です。)。

 なお,岸田秀氏は,彼の精神分析の視点を日本の歴史に応用し,4隻の黒船以降の日本近現代の姿にも,極めて示唆に富む小論を沢山お書きになっていました。

 過去に学ぶということとの関連で,簡単にそれもお伝えしておきます。

8.
 さて,自分自身を見るということに関して,本当に,いろいろな言葉がありますね。

 「汝自身を知れ」とか。

 「人のふり見て我がふりなおせ」とか。

 「天知ル地知る我知ル人知ル」(四知)とか。

 釈迦の「自灯明,法灯明」は,先に別の記事で紹介しました。

9.
 では,イエス・キリストの言葉はこういうことがらについて,どう語っているか?
 マタイ福音書からいくつか紹介します。
 私には信仰がなく,聖書を読んだこともないものです。
 ですから,キリスト者の方からは,この記事の文脈で,もっとふさわしいイエス・キリストの言葉をご紹介いただけたら,とてもありがたく思います。

 マタイによる福音書(口語訳) 

6:22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。


7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

10.
 先にお話したように,信仰のない私は,聖書を読んだことはありません。
 最近,あるお方のお姿から,聖なる言葉,信仰が血肉化した「精神」について,私なりに感じること,考えることがありました。
 そして,つい最近,私は,あの有名な「山上の垂訓」について,マタイによる福音書(口語訳)を読みました。
 私は,その言葉のひとつひとつに深淵な意味を感じました。
 その深淵な意味は,きっと,信仰のない私の想像を超えるものでしょう。
 先に私が紹介したイエス・キリストの言葉も,私自身,どこまで私がそれを理解しているのかというと,極めて浅い浅い理解なのだろうと思っています。
 一歩一歩かなと。
 そんな風にして,考えていこうかなと思っています。

 そうそう,私,「豚に真珠」という誰もが知っている言葉が,イエス・キリストの言葉から来ていることを初めて知りました。
 いや,もしかしたら,イエス・キリストの言葉以前からあった言葉で,イエス・キリストが,垂訓の中で,それを用いたのでしょうか。
 私には,分かりません。
 じゃあ,「猫に小判」はどこから来たのかな?とふと気になりました。
 さくっと調べられるかと思ったら,うーん,ちょっと時間がかかりそう。
 同様の意味のいろいろな言葉。
 うじゃっと出てきました。
 
犬に小判
犬に念仏,猫に経
犬に論語
兎に祭文
牛に経文
牛に麝香
牛に説法,馬に銭
牛に対して琴を弾ず
馬の耳に風
馬の耳に念仏
馬の目に銭
猫に石仏
猫に胡桃をあずける
豚に真珠
豚に念仏,猫に経 

11.
 自分自身に眼を向けるということ。
 そのことを考えてみる記事でございました。

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