1.
私は,普通に言われる意味での信仰をもっておりません。
聖書を読み込んだこととか,仏典を研究したとか,全くないです。
ですから,まあ,この記事で書きますことは,私が,ブログの世界に入ってから感じたことで,きっと信仰の深い方々からしますと,本当に,底の浅い話だと思います。
自分が良く知らないことは,語らないというのが慎みというものです。
それはそうですが,私,あの一連の騒動の中で,そういう信仰の深い方々との出会いがどれほど私を支えてくれたかと思うと,聖なる言葉,信仰が血肉化した「精神」に触れるということの意味を思うのでした。
論理,論理と言いまくり,まるで,遠い昔,ロッキード裁判進行中,金丸信というお方が,「リンリ,リンリでマンマが食えるか!」と選挙の街頭演説でおっしゃったことが,そのまま当てはまるような私でございます。
まあ,論理,論理といっても,それ一辺倒ではなく,また,論理以上に素晴らしい言葉があることも私は知っております(つもりですが正確でしょうか。言葉の奥深い意味は,簡単に分かるものではありません。)。
信仰が血肉化した「精神」に触れるということは,その方の深い信仰を経由して,その方が信仰している絶対者へと自然と心が向かうような面があるのかなとも感じている今日この頃でございます。
2.
さて,私は,「正しく見る」,「正しく考える」,「正しく語る」などと,釈迦の八正道のうちの3つを超単純化,簡素化して言うようになっております。
私には信仰はありませんが,原始仏教の考え方には,むかしから一定の関心をもっておりました。
原始仏教の論理性が私の性に合っているのかなとも思います。
その釈迦の言葉に,
「自灯明,法灯明」
という教えがあります。
検索をかけるとこの言葉に関する沢山の解説が出てきます。
とりあえずwikの釈迦をベースに分かりやすく改変し,私の解説も交えて紹介しましょう。
釈迦は,クシナガラとう地で,80歳で入滅しました。
沙羅双樹のもとで横たわり,入滅したときの様子は涅槃図という形でよく知られています。
平家物語の有名な冒頭,「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響あり,沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」の沙羅双樹ですね。
釈迦はその入滅の日に向けての最後の旅の途中,大病を患いましたが,回復しました。
その際,弟子のアーナンダ(多聞第一と言われた弟子。
阿難尊者)が,釈迦の回復を喜び,このように言いました。
師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました。
アーナンダにとっての釈迦は,教え導く偉大な御方です。
多聞第一と呼ばれることとなるアーナンダは,釈迦に付き従い,釈迦の言葉を聞き続けたのでしょう。
だからこそ,アーナンダは,釈迦が死に瀕する大病を患ったとき,釈迦の死を非常に不安に思い,それを怖れ,それゆえに,その回復を心から喜んだのでしょう。
これに対する釈迦の言葉
比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。
要するに,全部教えちゃったよ,なんも残ってないよと言うわけですね。
アーナンダ,ショック!
多聞第一ですからね,もっと聞きたい,もっと聞きたい,釈迦の言葉を聞き,導いてほしいというきもちからしますと,カックンと来たかもしれませんね。
続けて釈迦が語った言葉が,後に,自灯明,法灯明と呼ばれることとなる有名な言葉でした。
だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように。
続けて,釈迦は,この言葉の意味と実践を説きます。
では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?
阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。
阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである
この教えは,四念処(四念住)の修行実践を説いたものと言われています。
またwiki引用ですが,
四念住(四念処)
四種の観想
①身念住(体をあるがままに観察する)→わが身は不浄であると知る
②受念住(受をあるがままに観察する)→感受は苦であると知る
③心念住(心をあるがままに観察する)→心は無常であると知る
④法念住(法をあるがままに観察する)→諸法は無我であると知る
ということだそうです。
心・受・心・法を,「観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべき」ということを説いた・・・。
3.
自灯明,法灯明
汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように
この自灯明・法灯明について,いろいろな人がその意味を考えています。
深淵な意味があるからなのでしょう。
4.
なお,私の原始仏教への関心のルーツはですね,『聖☆おにいさん』のブッダ様も感動したという手塚治虫『ブッダ』でした(笑)。
小さいころに読みまして,なにやら不思議な感覚に襲われたのを覚えております。
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