リーガルマインドの発想法~目的・手段,アサーション,モラル・ハラスメント | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1.
 前回記事リーガルマインドの発想法~原則・例外,分類の発想と断定の問題についてから,リーガルマインドということを意識した記事を書いております。
 この記事では,物事を判断する際の枠組として,目的と手段の双方から考える判断枠組を紹介します。
2.
 裁判所の裁判例などを見ておりますと,物事を判断する際に,目的と手段の双方を見て判断するという枠組も随所に出てきます。
 たとえば,表現の自由などの精神的自由権と財産権などの経済的自由権について,それらを法律で規制した場合,その法律自体が違憲か合憲かが争われる場合があります。そのような場合,その法律が違憲か合憲かを判断するためのいろいろな基準が憲法学者によって研究されています。そのような基準の中に,目的,手段の双方について,クリアしないといけない基準を設定し,法律がその基準からしてどうなのかを判断するというものもあります。

3.
 目的と手段の双方で考える。
 極めて単純に言うと,以下のように言えます。

 目的が正当であるか。
 手段が社会的に相当であるか。

片方だけじゃだめなんですね。
目的と手段の双方がOKでないといけません。

4.
「正しく語る」ということも,私は,目的と手段の双方で見ていけるように思います。

(1)目的の正しさ
 関係性がさまざまですので,一般的抽象的に言い切ることは難しいです。
 そうではありますが,大枠として,以下のように提示したいと思うのです。

 私とあなたの双方がOKであることを目指しているかどうか。
 私の自尊感情とあなたの自尊感情,その双方が高まるようなものを目指しているか。

 夫婦の関係を念頭において具体的に考えてみるとよいと思います。

(2)手段の相当性
 まず,目的が正しくないなら,その正しくない目的を実現しようとする手段は,もう相当なものではなくなっております。
 目的が正しいとして,間違った手段を用いてしまったら,結局は,その目的を達成できず,別の結果を引き起こすことになります。

アサーションという言葉があります。

適当にネットでアサーションについて解説しているHPを拾ってきました。
アサーション~自己表現の方法 

 このHPでは,アサーションを,

 より良い人間関係を築くための、自分も相手も大切にした自己表現法

と定義しています。

そして,自己表現を

(1)攻撃的自己業現
(2)非主張的自己表現
(3)アサーティブな自己表現

の3種類にわけ,それぞれの特徴を,ああこういう感じかとイメージできるように説明しています。

5.
 このように,「正しく語る」ということを,アサーションの考え方を参考にして考えていくとき,それは,他方で,モラル・ハラスメント的表現についても,それがどういうものかがクリアになってきます。

 「モラル・ハラスメント」という言葉は,マリー=フランス・イルゴイエンヌという精神科医が被害者学の視点から,関係性一般における精神的暴力を,コミュニケーションを分析することで提示した言葉です。
 そして,それは,私の理解では,彼女は,次の問題意識を持っています。

今のこの社会が,価値相対主義に流れ,善悪の判断基準を失っていく中で,万人闘争状態の社会,強者の論理が支配する社会となっていいる。その結果,モラル・ハラスメントについて「寛容」な社会となっていて,被害者はますます抑圧されている。このような社会の状況に警鐘を打ち鳴らし,現在及び未来の被害者に対し,モラル・ハラスメントへの対抗手段を用意するとともに,社会に対し,善悪の判断基準を提供する。そのための言葉として,「モラル・ハラスメント」という言葉を世に問う。

「モラル」は道徳という意味なのです。

マリー=フランス・イルゴイエンヌの「モラル・ハラスメント」理解を私なりに要約しますと,次のようにまとめることができます。

目的の不法性
 「自己愛」を充足するために関わり合う他者をおとしめて支配することを目的とする。
 他者の心を支配し,自分の思うように操ることによって,自己愛を充足させる。

手段の不相当性
 その目的を達成するために,極めて不適切な表現を駆使する。
 
6.
 『モラル・ハラスメント』(マリー=フランス・イルゴイエンヌ)から,以下を紹介しましょう。

 他人の自由を尊重するという口実のもとに,状況がいくら深刻でも,社会全体がモラル・ハラスメントに目をつぶってしまうのだ(同書22頁)。

 私たちは原理原則を見失い,していいことと悪いことの境界がわからなくなって,他人のすることに無関心になっている。だが,それによって,モラル・ハラスメントの共犯者になっているのではないか?寛容になるのもよいが,それにははっきりと定められた限度を設定する必要があるのではないか?(同書23頁)

 現在の社会や文化はこのタイプの暴力を大目に見る傾向にあり,その結果,モラル・ハラスメント的な行為は広がりつつある。それに加えて,私たちの時代はそれがどんなものであれ,基準を設けるのを拒否する時代である。・・・中略・・・・実際,私たちは道徳や宗教による基準を失っている。そういったものがかつて社会の規範として存在した時には,私たちは「そんなことはするものではない」と,堂々と口にすることができた。しかし,そんなことはもう不可能になっているのだ。それに代わるものは,もはやメディアしかない。私たちはその出来事がメディアによって伝えられて世の中に知らされた時,初めて憤慨することができるのである(同書23頁)。

 モラル・ハラスメントの加害者は被害者にとって直接危険であるばかりではなく,まわりの人々にも間接的な影響を与える。加害者の行為に触れることによって,まわりの人々は善悪の判断基準を失い,他人を犠牲にしても自分さえよければ何をやってもいいというふうに思う恐れがある。これは重大な問題である(同書27頁)。

7.
 さっこん,「いじめ」について大きく取り上げられています。
 その「いじめ」という問題について,私たちは,この大人の世界の歪みが子どもの世界にそのまま投影され,より際だった形で現れているという見方をしてもよいのではないか。
 だとしたら,子の親は,「正しさ」,「善悪の基準」ということについて,もっと真剣に考えるべきではないのか?

 ネット社会で起きるさまざまな問題。匿名性等のネット社会の特質から,私は,リアルな社会の諸相がこのネット社会では際だって現れるように思います。
 だとしたら,この摩訶不思議なネット社会においても,「正しさ」「善悪の基準」ということにこだわるブログも必要ではないか?
~神ならぬ人間が「正義」を希求するとき,独善の裂け目がすぐ横に大きな口を開けていることを意識しつつ~

「正しく見る」
「正しく考える」
「正しく語る」
・・・・・・・・

私は,釈迦の八正道を思うのでした。
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