メッセージボード変更のお知らせ~「われわれ」の「願い」のヴィジョンとともに | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。


 
 本日,私は,この私のブログの基本性格の一つとして,コメントにおけるルールを明示しました。
 そのルールは,決して表現に対する規制的なものではありません。
 表現の自由を大切にし,その自由行使に伴う内在的責任のひとつを明示するものです。



2.

 私は,原理原則を大切にするとともに,柔軟でもありたいと思います。
 法律的な思考の一つとして,以下の発想があります。

 

 原則を立てるとともに,例外を許容する。
 例外設定については,その妥当範囲を明確化する。
 
 このようにして,原理原則と個別的場面での妥当性との調和を取っていく。

 

 私は,ブログという公表の世界に足を踏み入れて時間が立つ中で,公表の原理原則とブログという公表の場の特殊性についても,いろいろな出来事を糧として考えておりました。
 
 ネットという電脳世界,その中のブログという世界,そしてそれぞれのブログ主の世界。
 

 アメブロの各種機能とブログ主に託された各種設定を考えますと,まことに,ブログというものは,興味深く思えます。



 私は,表現について考える中で,私のブログを,社会形成の実験場とする発想を持ちました。
 
 本質的孤独を抱える人間が複数集まっている。
 参加されている方の移動もある。
 そのような中で,どのような社会を形成していくか。
 

 上記の表現は,社会契約説の発想を前提としています。
 このことを考えたとき,私は,ブログを社会と見るならば,その社会における規範形成の根本原理を考える必要が出てくると思います。

 社会契約説といいますと,ホッブス,ロック,ルソーの名が思い浮かびます。
 浅学な私は,それぞれの差異を正確には語れません。
 
 ただ,私自身のヴィジョンとして,次のような事柄を提示したいと思います。



3.

 世界の中に投げ出された存在である個々の人間。

 そのような人間の関わりの中で,形成されていく社会。

 時間の経過は,何事かが私に向かってきて,私はそれに態度を取り,自らを自らが選択した方向に向けて形作り,その成果を,過去にしまいこんでいくようなもの。


 宇宙的時間からは瞬きよりも短いものかもしれないけれど,人という存在にとってはそれなりに長い時の流れと数多くの人の生の営みがあった。

 そして,その流れの中で,過去にしまいこまれた人,人,人の「精神」


 その「精神」とは,孤独な存在が関わり合って生きる人のあり方から生まれてくる「願い」を中核とするものではないか。

 私は,私の存在のあり方を全て背負って,そして,こうありたいと願う。

 私は,私の関わりのあり方の全てを背負って,そして,こう他者と関わりたいと願う。

 私は,私と同じ時を生きる「われわれ」として他者と関わり,「われわれ」という存在のあり方全てを背負って,孤独と関わりの緊張の中から,どうにか,共通の願いを見いだして,それを「われわれの願い」としたい。そうしたいと願う。



 そのような人,人,人の「願い」の成功と挫折が過去にしまいこまれていて,そういう過去を背負って私という個は関わりの中で現在を生きる。

 未来から向かってくるものに対して態度を取り,過去に私という個のちいさな生の営みをつけ加えるというあり方で,未来から来る現在を生きて死んで,過去へ向かう。



 私という個は,その死において,最後の態度を決定する。

 態度を決定することが,なにかを志向するものならば,その態度を取った瞬間において,連続性を背負っているが以前とは違う精神が,そこに立ち現れていることになる。

 そうすると,死という瞬間において,死に対してなにかを志向して態度を取るということから,死によって滅する心と体から切り離された純粋精神ともいうべきものが,その瞬間の前の精神とは異なるものとして生まれ出でて,それが過去にしまわれるのではないか。


 永遠不変の過去にしまいこまれてきた人,人,人の純粋精神というべきもの。

 それがあると直観的に感じ取り,そして決断的に信じることが,超越者の存在を信じるということではないか。



 過去を背負った現在の「われわれ」が,「正義」「真理」と呼ばれるものをおろそかにするとき,「われわれ」は,価値相対主義,ニヒリズムの陥穽に陥り,「いま・ここ」を生きる数多くの孤独な個の関わりのあり方が,「われわれ」から万人闘争状態へと堕していくのではないか。



 「われわれ」は,「われわれ」として先達から引き受けたものを背負い,それを,子供たちという次世代の「われわれ」に託して,過去に生きる先達の「精神」の一部となっていく存在ではないか。


 このように考えたとき,私という孤独な個は,「われわれ」のひとりとして,次世代の「われわれ」に対し,何をつけ加えて,彼らを過去から見守りたいと願うだろうか。



 万人闘争状態となった世界に次世代が,「投げ出され」たものとして生きることを,願うのか。



 人として生きるということについての,何らかの「正しさ」を現世に置き,永遠の過去からそっと次世代がその「正しさ」に対してどのような態度を取るのを見守るまなざしとなりたいと願うのか。



4.

 私は,先の3で述べたヴィジョンをもって,「人それぞれ」,「感じ方はそれぞれ」と言ってすます相対主義へと傾く流れに対して問いかけたい。
 

 「正義の観念」に対して,いかなる態度を取るのか。
 
 「正義の観念」を何らかの形で肯定するなら,では,それを「われわれ」が確かめて共有しようとする方法として,あなたは,何を重視するのか。



 この「いま・ここ」の世では,いろいろなことが起こっています。
 
 最近は,「いじめ」ということ,それによる「自殺」ということが,大きくとりあげられています。


 万人闘争状態の兆しがそこにすでに存在しているのではないか。
 
 
 この日本という共同体に生きるわれわれが背負う直近の大きな加害と被害
 「直近」ということに,フクシマはもちろんのこと,ヒロシマ,ナガサキを見つめ,さらに,被害の歴史だけでなくて加害の責任も,そのありのままに背負う。

 

 フランクルに影響された私は,彼がアウシュビッツの生存者であったことにも思いを馳せるのです。

 私には,その彼の精神が,過去にしまいこまれた精神に包まれてその一部となりつつ,ときおり,ひょいと彼の独自性個別性をもった純粋精神として立ち現れるヴィジョンがあります。
 純粋精神となった彼は,どのようなまなざしを,今を生きる「われわれ」に向けているでしょうか。


 どのような「願い」とともに・・・・・。
 


5.

 このような,またまた長い前置きをして,本日,私が鮮明にしたこのブログのコメント欄のあり方を皆さんにお伝えします。



本ブログのコメントについて



 そのコメント内容が,「価値ある議論」であるならば,連投長文コメントを歓迎します。理由を付して正確に語ることの価値,意見を交換し,時に激しい議論になろうとも,そこから表現者双方に生まれる価値を重視するブログです。

 公表の場ですので,コメントされる方は,そのコメントにおいてご自身を表現し,「沈黙する読者」から問われる存在となることを意識していただけたらと思います。コメントをするという行為は,それに対して批判もなされます。批判する表現者が,その批判を「正しく語る」表現で行おうとすれば,字数制限の関係で時には長文連投コメントとなります。コメントをされる方は,まさにコメントを行うという表現の内に,そういう批判が,ブログ主からも他の方からもなされ得るということを,その批判が「正しく語る」姿勢でなされている限りにおいて受け止めて応答する責任が発生していることを意識して下さい。沈黙もまた「応答しない」という応答表現のひとつです。その沈黙の表現によっても,あなたは,あなたを形作り,そういうものとして自己を表現されているのです。

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