鎮国
【黒羽ジョギングの話のつづき】
黒羽小学校から那珂川岸へと坂を下りていくと、那珂川に歩道が架かっています。
その歩道橋から後ろを振り返ると走って来た黒羽城のある河岸段丘の全景を観ることができます
今回のワークアウトのメインイベントはこれから。
この河岸段丘を黒羽城に向かって登ります
歩道から那珂川に沿って走って行くと、急峻な丘の一部分に綺麗に整備された階段が見えてきます。
そんなに長い階段ではないのですが、つづら折りになるほど急な崖を登って行くのはなかなかのコースです
最初は軽快に走り始めたのですが、途中で歩きに変わってしまいました
黒羽城が那珂川とその支流の松葉川に挟まれた河岸段丘に造られた山城であることを体感できます
階段を登り切ると、これまた綺麗に整備された森の中のシングルトラックを走ります。
森を抜けると、そこには黒羽城
本丸横の馬出に出てきます。
馬出と本丸を結ぶ橋からは大きな空堀を観ることができます
橋を渡れば本丸。
ここは黒羽藩主大関氏(1万8千石)の本拠。
天正4(1576)年に大関高増(たかます)が黒羽城から大学寄りの余瀬というところにあった白旗城から移って以来、明治4(1871)年の廃藩置県まで約300年の間ずっと居を構えたそうです。
本丸から黒羽体育館の脇を抜けて森の中を北に行くと鎮国(神)社というお社があります。
「社伝によると、久寿2年(1155年)に須藤権守貞信、千葉介常胤、三浦介義明、上総介広常等が勅を受けて那須野の九尾の狐を退治したとき、弓矢の神、八幡宮をこの地に勧請して祀ったという。これを狩野の八幡宮と称した。天正4年(1576年)大関高増が黒羽城を築くにあたり、筑紫の宇佐八幡宮並びに山城の男山八幡宮の分霊を勧請して、八幡館跡に神社を建て北八幡宮を称した。その後、大関増業が多治比の祖霊を合祀した。」
とのこと(大田原市観光協会HPより)。
「ちんこく」
黒羽小学校から那珂川岸へと坂を下りていくと、那珂川に歩道が架かっています。
その歩道橋から後ろを振り返ると走って来た黒羽城のある河岸段丘の全景を観ることができます
今回のワークアウトのメインイベントはこれから。
この河岸段丘を黒羽城に向かって登ります
歩道から那珂川に沿って走って行くと、急峻な丘の一部分に綺麗に整備された階段が見えてきます。
そんなに長い階段ではないのですが、つづら折りになるほど急な崖を登って行くのはなかなかのコースです
最初は軽快に走り始めたのですが、途中で歩きに変わってしまいました
黒羽城が那珂川とその支流の松葉川に挟まれた河岸段丘に造られた山城であることを体感できます
階段を登り切ると、これまた綺麗に整備された森の中のシングルトラックを走ります。
森を抜けると、そこには黒羽城
本丸横の馬出に出てきます。
馬出と本丸を結ぶ橋からは大きな空堀を観ることができます
橋を渡れば本丸。
ここは黒羽藩主大関氏(1万8千石)の本拠。
天正4(1576)年に大関高増(たかます)が黒羽城から大学寄りの余瀬というところにあった白旗城から移って以来、明治4(1871)年の廃藩置県まで約300年の間ずっと居を構えたそうです。
本丸から黒羽体育館の脇を抜けて森の中を北に行くと鎮国(神)社というお社があります。
「社伝によると、久寿2年(1155年)に須藤権守貞信、千葉介常胤、三浦介義明、上総介広常等が勅を受けて那須野の九尾の狐を退治したとき、弓矢の神、八幡宮をこの地に勧請して祀ったという。これを狩野の八幡宮と称した。天正4年(1576年)大関高増が黒羽城を築くにあたり、筑紫の宇佐八幡宮並びに山城の男山八幡宮の分霊を勧請して、八幡館跡に神社を建て北八幡宮を称した。その後、大関増業が多治比の祖霊を合祀した。」
とのこと(大田原市観光協会HPより)。
「ちんこく」
あ、ただ言ってみたかっただけです。
栃木に来て20年近くになりますが、知らないことばかりです。
栃木に来て20年近くになりますが、知らないことばかりです。