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シモデ先生のまあじゃんうんちく version2

題名の通り、マージャンに関するうんちく話を、自分なりの観点で紹介しています。最近はあまり書いていませんが(笑)。


マージャン強くなりたい、という人にはあまり役に立たない話ばかりかも(笑)。

2002年当時、お世話になった会場、

福岡の「雀健ポン」について、少し話しましょう。

 

当時の雀健ポンのシステムは、

営業時間の10時から23時までの間で、

好きなときに遊びに来てもいい、

というもの。

 

しかも、役を覚えたばかり、という人もいれば、

経験が豊富な人もいたり。

競技マージャンの大会に参加するくらいの腕自慢もいました。

 

マージャンのレベルや、仲良し具合によって、

卓組したり、席の移動をお願いしたり。

昼間から夕方までは、慌しかったですね~。

 

年齢層も、10代から90代まで。

ちなみに当時は、

「マージャン店」としての営業ではなく、

「カルチャースクールの施設」という形で、

営業していました。

つまり、高校生も来場OKだったのです。

実際、高校生も何人か来ていました。

 

 

 

というわけで、マージャンを教える内容も、

レベルに応じて変えないといけなかったわけです。

 

後ろで見てアドバイスするのは、この頃の経験が生きていますね。

今なら、もっと上手くやれたかもなぁ、

なんて思ったりもしますけどね。

 

 

 

 

ところで、当時の雀健ポンですが、

昼がほのぼの教室、夜は若者中心の実戦教室、

といった感じでした。

 

今でも交流がある人が、結構いるんですよね。

 

 

山田田さん。

現在は、RMUのプロとして競技活動を続けていますが、

当時はプロ連盟の若手選手。

東京のプロリーグにも毎月通っていました。

 

山田さんは、雀健ポン立ち上げ当初から、

専属講師として働いていました。

 

彼が同僚じゃなかったら、講師活動をここまで続けていなかったかも。

 

ちなみに彼も、雀健ポンを辞めてからは色々やってきましたが、

今は、新橋「雀笑家」で講師活動をしております。

 

 

 

川崎友広さん。

当時はまだ大学生で、長身痩躯でした。

いや、痩躯は言いすぎた(笑)。でも、現在よりも痩せてました。

 

地方の若者にしては、マージャンがそこそこ上手。

このまま、同世代の人たちと腕を磨いてくれれば、とは思いました。

 

しかし、私からは、

「麻将連合の試験、受けたら?」

というような誘いはしなかったです。

 

やはり、競技選手の世界に身を投じるのは、

いろいろと大変なので、覚悟が必要なんですよ。

本人から「それでも受けたい」と言ってきたら、別ですが。

 

その後、麻将連合の大会に参加したり、

選手との交流がたくさんあったおかげで、

麻将連合のツアー選手になって、現在に至ります。

 

 

 

多々羅勝利さん。

 

マージャンのスタイルが独特で、

本人も「いろいろやってみよう」と、

楽しみながら模索していたようです。

 

多々羅さんもまた、麻将連合の競技会によく参加してくれています。

福岡道場や広島道場の立ち上げの際は、

いろいろ力になってくれました。

 

麻将連合だけでなく、

RMU長崎の大会でも、よく活躍されています。

 

 

 

平野仁道さん。

 

平野さんも、雀健ポンがきっかけで、

競技マージャンをやるようになりました。

 

第1回「山笠杯」では、

「決勝戦に進出して、役満を2回放銃する」

という離れ業をやってのけました(笑)。

 

九州の麻将連合の大会や競技イベントには、常に参加してくれます。

そして、それだけでなく、

「μレディースオープン」に、毎年協賛していただいています。

 

 

 

川井啓永さん。

 

通称「塾長」。

河合塾(かわいじゅく)をもじったものです。

 

私が九州で対局があった時には、

川井さんのお家によく泊めてもらいました。

 

あと、μカップなどの大会では、打ち上げで大活躍してくれます(笑)。

 

しかし、侮る無かれ。

ビッグワンカップの決勝戦に進出したこともある、実力者なのです。

 

 

 

他にもいろんな仲間がいたなぁ。

こがっち、つづりぎくん、あらたくん、かわかみくん、

はらださん、はらだくん、トムくん、あらつくん、

おのくん、こやなぎくん、いとうくん、

ふじぽん、おりつさん…、などなど。

 

もっと紹介したいくらいですが、長くなるのでこの辺で。

 

 

 

今回の話は、ひとまずここまで。

 

それにしても、長くなりましたね~。

50回くらいで終われるかと思ったのですが、

まさか、まだ20代の頃の話とは。

 

いやぁ、いろいろやってきたんですね、自分。

もっと簡単に振り返れると思ったのですが、

甘く見てましたね(笑)。

 

あと2回くらいで東京に戻れれば、と思います。

ではまた~。

前回の記事、結構多くの人が読んでくださったようで。

 

とても嬉しいのですが、実はまだ追記したい事がありました。

というわけで、再び2016年に。

 

 

2016年10月。

 

気がつけば、マージャン教室の講師歴14年。

講師として、まだまだ足りない面は多々ありますが、

マージャンを教えるにあたって、気をつけている事について(以下略)。

 

 

 

・見守る

 

生徒さんにとっては、マージャンって遊び道具みたいなもの。

その遊び道具を使って、

「いかにみんなで楽しく遊んでくれるか」

を見守るのも、大事な仕事。

 

最初のうちは、最低限必要なルールとかを教える必要があります。

しかし、ある程度までいったら、

「これ捨てちゃダメ」

「こっちの方がいいよ」

とかは、こちらからはなるべく言わないようにしています。

 

生徒さんが「どうしていいか分からない」というような仕草をしたり、

生徒さんから質問を受けた時に教える、

というのが、基本的なスタンスです。

 

イメージとしては、

「園児を見守る保育士さん」

といったところでしょうか。

 

危ない事をしない限り、楽しそうに遊んでいるのをなるべく見守る。

最初から「あれダメこれダメ」だと、生徒さんものびのび出来ないと思うのです。

 

 

 

 

時は再び2002年。

 

新米のしもで先生は、

「ダメなところは、教えてあげて直させないと」

という感じで、悪い意味で頑張ってやっていました。

 

「上達することによって、楽しみが増える」

と思いながら、一生懸命教えていましたね。

 

 

もちろん、中にはそういう人もいるでしょうが、

「目的なんて、人それぞれ」

という事をよくわかっていませんでした。

 

マージャン教室の仕事にやりがいを感じるのは、

まだまだ先の話になるのです。

 

 

 

 

今日の話は、ひとまずここまで。

 

次回こそは、時間を先に進めようと思います(笑)。

 

ではまた~。

 

2016年10月。

突然、現在にワープしました(笑)。

 

気がつけば、マージャン教室の講師歴14年。

講師として、まだまだ足りない面は多々ありますが、

マージャンを教えるにあたって、気をつけている事について、

いくつかお話しましょうかね。

 

 

 

・教えすぎない

 

早く覚えてもらおうと思って、

いっぺんにあれもこれも教えようとしても、

教わる側は、かえって混乱してしまうもの。

 

生徒さんは、分からない事が多くて当たり前なんです。

さらに言えば、何を聞いていいのかが分からないくらい。

 

だからこそ、教えるのは少しずつで。

たくさん教えたところで、

教わる側の受け入れ容量には限度がありますからね。

 

 

 

・いかに「楽しい」と思ってもらうか

 

マージャンって、無駄に難しいゲームなんです。

初心者にとっては、ハードルや障害物がいくつもあります。

 

マージャンの楽しさに行き着く前に、

「マージャンって難しいわ~」

「こんなの覚えられないわ」

と思わせないかですね。

 

「難しい」と多少思ったとしても、

それ以上に「楽しい」と思ってくれれば、

結構続けてくれるものです。

 

 

 

・「何回言えばわかるのか」と思ってはいけない

 

マージャンって、覚えなくても生きていけるんですよ。

教室に通っていても、なかなか覚えない人はいます。

 

でも、そこで教える側がイライラしてはいけません。

覚えようと思って、教室に来てくれているのですから。

 

100回「わからない」って言われたら、

101回繰り返し教えればいいんです。

 

マージャン覚えようと頑張っている人に対して、

生徒さんの能力が低いからといって、

教える側がサジを投げてはいけませんよね。

 

 

 

・「テクニック」よりも「気持ち」

 

生徒さんに対して真摯に接していれば、

教え方が多少下手でも、生徒さんはついてきてくれます。

 

マージャンが上手になるのが目的ではなく、

マージャンを楽しんでくれる事が目的ですからね。

 

 

 

・「マージャンって面白い」と思ってくれる人を1人でも増やしたい

 

マージャン教室とは少しズレるかもしれませんが。

 

マージャンには、いろんな楽しみ方があります。

マージャン教室、健康マージャン、

フリーマージャン、セットマージャン、

競技マージャン、大会マージャン、

ネットマージャンなどなど。

 

それぞれの楽しみ方でいいので、

「マージャン楽しい」と思ってくれる人が増えれば、

マージャンのイメージが徐々に変わると思うのです。

 

自分とは違うマージャンをしている人がいても、

その人を否定せず、

自分の楽しみ方でマージャンに接してくれれば、

と思っています。

 

 

 

一番最後のは、

「教える」というよりも「普及」という観点ですね。

 

これからも、マージャンの楽しさを伝えられればと思います。

 

それでは、2002年に戻りましょう。

 

 

 

 

というわけで、2002年の4月。

 

福岡に来た、新米のしもで先生はといいますと。

 

いきなり、入門コースの生徒さんを4人ほど、

担当する事になりました。

いずれも年配の女性の方でした。

 

とはいうものの、マージャン教室の仕事が初めてなのに加え、

マージャンをゼロから教えること自体も初めて。

しもで先生の最初の教え子、

果たしてどれだけ覚えてくれるのでしょうか。

 

 

慣れないなりに、一生懸命教えたつもりだったのですが、

なかなか覚えてくれないんですよね~。

 

「生徒さんに、マージャン覚えてもらわなきゃ」

という気持ちが先走り、

「なんで、こんな事も覚えられないんだ~」

って、苛立ったものです。

 

 

 

そう、お気づきの方もいるでしょう。

当時のしもで先生は、

教えるスキルはおろか、

マージャンを教えるにあたって、

意識がまるで足りなかったわけですね。

 

まぁ、今が足りてるわけではないんですけどね(笑)。

 

 

というわけで、前途多難なスタートを切った、

新米のしもで先生。

 

講師人生は、まだ始まったばかり。

果たしてその後、どうなるのでしょうか。

 

 

 

 

今回の話は、ひとまずここまで。

 

「マージャン教室の講師として意識している事」

については、一度書きたかったんですよね。

 

長くなってしまいましたが、ご勘弁を。

 

 

次回以降も、しばらくは福岡編が続きますが、

関東在住時代のネタを思い出したので、

機会があれば、またタイムスリップするかも。

 

 

ではまた~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2002年4月。

どういうわけか(笑)、福岡にいました。

 

 

 

その3ヶ月前。

麻将連合の選手でもあり、

オクトパス倶楽部の上司でもあった、

岩田文夫さんから、

「しもでくんさ~、九州でマージャン教室の仕事やらない?」

というお話が回ってきました。

 

「ボクに回ってきたんだけど、

しもでくんオクトパス辞めるなら、どうかな~と思って」

 

ちなみに、岩田さんもオクトパス倶楽部を辞めた直後でした。

ただ、岩田さんは、他の仕事の話があったようで、

私にマージャン教室の仕事が回ってきたわけです。

 

 

まぁ、場所が場所だけに、少し迷ったんですけどね。

ただ、「フリー麻雀店の社員はもうコリゴリ」

と思っていた時期だったので、引き受ける事にしました。

 

 

 

 

それにしても、福岡か~。

思えば遠くへ来たもんだ。

 

新しい職場は、福岡の天神からも近い、

「雀健ポン」(現在は「雀ケンポン」に改称)。

 

この会場は、健康マージャンやマージャン教室だけの営業でした。

当時からすれば、画期的でしたね。

 

ここのオーナーのKさんは、とにかくエネルギッシュ。

「面白そう」と思ったら、積極的に行動に移す人でした。

 

当時はオープンしてから約1年経った頃で、

「さあ、これから」という状況だったのですが、

オープンの時から講師として関わってきたHさんが、

体調不良で退任する事になったのです。

 

そこで、代わりの常勤講師を探していた時に、

今回の仕事の依頼があったわけです。

 

 

 

それにしても。

学校や勉強が嫌いだった私が、

まさか、マージャン教室の先生になるとはね。

 

マージャンのお仕事とはいえ、

何から何まで新しい事ばかりだったので、

楽しみと同様、不安も結構ありましたね~。

 

 

 

というわけで、福岡の地で、

「しもで先生」としてのマージャン人生が始まったのです。

 

 

 

 

今回の話は、ひとまずここまで。

 

名古屋、藤沢、厚木、と来て、

今度は福岡編です。

 

ついに「しもで先生」が誕生しましたね~。

もう14年半も前の事なんですね。

 

新米先生の奮闘記(?)は、次回以降、何回か続くと思います。

年内に、東京再上陸編を書けるか怪しくなってきましたね(笑)。

 

1年で書ききるのは諦めたので、

気長に読んでもらえればと思います。

 

ではまた~。

2002年。

「オクトパス倶楽部」で働き始めて、2年と少し経ちました。

 

競技選手としての環境は、

名古屋とは比べ物にならないくらい、

恵まれているなぁと感じました。

 

 

その一方、仕事の方はといいますと。

 

このブログを最初から読んでいる方なら、

想像がつくとは思いますが(笑)。

およそ2年周期でやってくる、

「やってられない病」が発症してしまいました。

 

「麻将連合の選手という立場」、

「麻将連合の先輩が上司」、

という状況をもってしても、ダメでした。

 

仕事上で大きなトラブルがあるわけではないのですが、

小さいストレスが溜まりに溜まって、

という、おなじみのパターンでした。

 

 

 

「もう、麻雀店の社員という形で働くのは、やめにして、

アルバイトの立場で、競技活動を続けていこうかな」

と、思うようになりました。

 

とはいうものの、

「このまま、なんとなく競技選手として活動していて、

果たしていいものだろうか」

という、今後に対する不安が、正直ありました。

 

 

 

2002年の1月に、オクトパス倶楽部を辞めて、

少しの間、練馬にあった「薫風」という麻雀店で、

アルバイトする事に。

 

トップだけが貰えて、ラスだけが払う、

という、101形式のフリー営業でしたが、

客足が伸びず、既存のフリー営業に切り替えました。

 

その後は、フリー営業も止めて、

競技会をやったり、健康マージャンをやったり、

近所の住民の憩いの場として、親しまれていたようです。

 

 

薫風のオーナーだったのが、山崎さんという方。

ちなみに、101競技連盟に所属していた時期もありました。

その山崎さんが、脱サラして麻雀店を開業したわけです。

 

101所属の選手だけでなく、いろんな競技選手が働いていました。

小林剛プロも、同時期に手伝っていましたね。

何かと縁がありますよね(笑)。

 

 

 

山崎さんには、住むところとか、いろいろお世話になったのですが、

結局、2ヶ月で辞める事になりました。

 

今回は、決して嫌になって辞めたわけではありません。

オクトパス倶楽部の元上司でもあり、

麻将連合の選手だった、岩田文夫さんを通じて、

新しい仕事の話が回ってきたのが、その理由です。

その新しい仕事とは…。

 

 

 

今回の話は、ひとまずここまで。

 

新しい仕事については、

詳しくは、次回以降に書く予定です。

 

そうですね~、

「しもで先生が生まれる直前」

とでも言っておきましょうかね。

 

ではまた~。