こんにちは、みなさんお元気ですか?


田端文士村記念館を後にした 私わたくし臣(しん)、同館でいただいたパンフレット(散策マップとしおり)を見ながら田端を歩いてみました↓

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まずはこちら、芥川龍之介邸跡↓

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文士村を代表する作家である芥川は、大正3年から昭和2年までの約13年間、この地(当時の北豊島郡滝野川町字田端435番地)田端1-20に住んでいました。
この間「羅生門」「鼻」「河童」などの小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡を残しています。
現在その邸宅跡は存在せず、文士村記念館(財団法人北区文化振興財団田端文士村記念館)が建てた解説板が建っています。

続いて板谷波山先生邸跡に移動。
ブログでは紹介しませんでしたが、わたくし臣(しん)は、以前にも波山先生邸跡を訪ねたことがあります。
その時(平成21年)に撮った写真です↓

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階段を登ったところが波山先生邸跡↓

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写真を撮った当時は、文士村記念館が建てた解説板(「板谷波山旧居宅跡の周辺地図」と「田端文士村の散歩道3板谷波山旧居宅跡地」)がありました↓

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参考までに解説文をここに掲載しておきます↓

「田端文士村の散歩道3板谷波山旧居宅跡地」
板谷波山(陶芸家 明治5~昭和38年)は明治36年、当時人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる当地、田端512(現・3-24)番地に居を定めました。1年3か月の歳月を費やして、夫婦で三方倒焔式丸窯(さんぽうとうえんしきまるがま)を築き、葆光(ほこう)彩磁など数多くの名作を生み出しました。
昭和20年、戦災により住居工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び田端に戻り、終生ここで暮らしました。
波山は田端文士村の草分けとして、吉田三郎、香取秀真などの美術家をはじめ多くの芸術家たちと交流を深め、昭和28年には、秀真とともに、工芸界初の文化勲章を受章しました。
他にも、この近隣には、香取正彦、濱田庄司など波山と知己のあった美術家たちが住んでいました。
主な作品は、葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん 大正6年 泉屋博古館蔵 重要文化財)、葆光彩磁草花文花瓶(ほこうさいじそうかもんかびん 大正6年頃 出光美術館蔵)など。

この波山先生の邸宅跡ですが、現在は区画整理事業が進み・・・
このような姿に変貌してしまいました↓

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残念です。
ちなみに、ここにあった三方倒焔式丸窯やロクロ台、道具類などは波山先生の死後、故郷・茨城県筑西市にある板谷波山記念館に移され保存公開されています。

さて続いては、波山先生邸跡のすぐ近くのこちら「ポプラ坂」と「ポプラ倶楽部跡(現在の田端保育園)」↓

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ここには北区教育委員会の解説板があったので、紹介します↓

「ポプラ倶楽部」
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などがこのすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1か月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。
昭和62年 東京都北区教育委員会

まさに当時の一流芸術家たちの社交場だったようです。
波山先生もここで、芥川龍之介と交流したのでしょうか。


というわけで、大龍寺・板谷波山先生の墓に続きます。


■田端文士村
田端は明治中頃まで、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であったが、 明治22年に上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになった。 明治33年に小杉放庵(洋画家・歌人)、36年に板谷波山が居を構えると、波山を慕って吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)などがと田端に移り住み、やがて画家を中心とした親睦団体「ポプラ倶楽部」も誕生するなど、明治末期にはさながら「芸術村」となった。更に大正3年には芥川龍之介(小説家)、5年に室生犀星(詩人・小説家)が住み始め、彼らの名声が高まるにつれ、萩原朔太郎(詩人)、堀辰雄(小説家)、菊池寛(小説家)なども田端に集まり、大正から昭和初期にかけて「文士村」となった。