こんにちは、みなさんお元気ですか?
さて今回は、「田端文士村記念館の板谷波山生誕140年記念企画展を観てきました」からの続きです。
田端文士村記念館を後にした 私わたくし臣(しん)、同館でいただいたパンフレット(散策マップとしおり)を見ながら田端を歩いてみました↓
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/f7/d4/j/o0448067314650102277.jpg?caw=800)
まずはこちら、芥川龍之介邸跡↓
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/39/f7/j/o0448059714650102280.jpg?caw=800)
文士村を代表する作家である芥川は、大正3年から昭和2年までの約13年間、この地(当時の北豊島郡滝野川町字田端435番地)田端1-20に住んでいました。
この間「羅生門」「鼻」「河童」などの小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡を残しています。
現在その邸宅跡は存在せず、文士村記念館(財団法人北区文化振興財団田端文士村記念館)が建てた解説板が建っています。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/3c/b9/j/o0448033614650102288.jpg?caw=800)
階段を登ったところが波山先生邸跡↓
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/d5/da/j/o0448033614650102289.jpg?caw=800)
写真を撮った当時は、文士村記念館が建てた解説板(「板谷波山旧居宅跡の周辺地図」と「田端文士村の散歩道3板谷波山旧居宅跡地」)がありました↓
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/3e/8d/j/o0448067314650102294.jpg?caw=800)
参考までに解説文をここに掲載しておきます↓
「田端文士村の散歩道3板谷波山旧居宅跡地」
板谷波山(陶芸家 明治5~昭和38年)は明治36年、当時人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる当地、田端512(現・3-24)番地に居を定めました。1年3か月の歳月を費やして、夫婦で三方倒焔式丸窯(さんぽうとうえんしきまるがま)を築き、葆光(ほこう)彩磁など数多くの名作を生み出しました。
昭和20年、戦災により住居工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び田端に戻り、終生ここで暮らしました。
波山は田端文士村の草分けとして、吉田三郎、香取秀真などの美術家をはじめ多くの芸術家たちと交流を深め、昭和28年には、秀真とともに、工芸界初の文化勲章を受章しました。
他にも、この近隣には、香取正彦、濱田庄司など波山と知己のあった美術家たちが住んでいました。
主な作品は、葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん 大正6年 泉屋博古館蔵 重要文化財)、葆光彩磁草花文花瓶(ほこうさいじそうかもんかびん 大正6年頃 出光美術館蔵)など。
板谷波山(陶芸家 明治5~昭和38年)は明治36年、当時人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる当地、田端512(現・3-24)番地に居を定めました。1年3か月の歳月を費やして、夫婦で三方倒焔式丸窯(さんぽうとうえんしきまるがま)を築き、葆光(ほこう)彩磁など数多くの名作を生み出しました。
昭和20年、戦災により住居工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び田端に戻り、終生ここで暮らしました。
波山は田端文士村の草分けとして、吉田三郎、香取秀真などの美術家をはじめ多くの芸術家たちと交流を深め、昭和28年には、秀真とともに、工芸界初の文化勲章を受章しました。
他にも、この近隣には、香取正彦、濱田庄司など波山と知己のあった美術家たちが住んでいました。
主な作品は、葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん 大正6年 泉屋博古館蔵 重要文化財)、葆光彩磁草花文花瓶(ほこうさいじそうかもんかびん 大正6年頃 出光美術館蔵)など。
この波山先生の邸宅跡ですが、現在は区画整理事業が進み・・・
このような姿に変貌してしまいました↓
このような姿に変貌してしまいました↓
さて続いては、波山先生邸跡のすぐ近くのこちら「ポプラ坂」と「ポプラ倶楽部跡(現在の田端保育園)」↓
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/15/99/j/o0448029914650102308.jpg?caw=800)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20191126/13/shimodatecity/54/bb/j/o0448033614650102312.jpg?caw=800)
ここには北区教育委員会の解説板があったので、紹介します↓
「ポプラ倶楽部」
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などがこのすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1か月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などがこのすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1か月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。
昭和62年 東京都北区教育委員会
まさに当時の一流芸術家たちの社交場だったようです。
波山先生もここで、芥川龍之介と交流したのでしょうか。
波山先生もここで、芥川龍之介と交流したのでしょうか。
というわけで、大龍寺・板谷波山先生の墓に続きます。
■田端文士村
田端は明治中頃まで、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であったが、 明治22年に上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになった。 明治33年に小杉放庵(洋画家・歌人)、36年に板谷波山が居を構えると、波山を慕って吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)などがと田端に移り住み、やがて画家を中心とした親睦団体「ポプラ倶楽部」も誕生するなど、明治末期にはさながら「芸術村」となった。更に大正3年には芥川龍之介(小説家)、5年に室生犀星(詩人・小説家)が住み始め、彼らの名声が高まるにつれ、萩原朔太郎(詩人)、堀辰雄(小説家)、菊池寛(小説家)なども田端に集まり、大正から昭和初期にかけて「文士村」となった。
田端は明治中頃まで、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であったが、 明治22年に上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学)が開校されると、若い芸術家が次第に集まるようになった。 明治33年に小杉放庵(洋画家・歌人)、36年に板谷波山が居を構えると、波山を慕って吉田三郎(彫刻家)、香取秀真(鋳金家)などがと田端に移り住み、やがて画家を中心とした親睦団体「ポプラ倶楽部」も誕生するなど、明治末期にはさながら「芸術村」となった。更に大正3年には芥川龍之介(小説家)、5年に室生犀星(詩人・小説家)が住み始め、彼らの名声が高まるにつれ、萩原朔太郎(詩人)、堀辰雄(小説家)、菊池寛(小説家)なども田端に集まり、大正から昭和初期にかけて「文士村」となった。