5月 6日(水) スペイン風邪・新型コロナ関連文献1 1518 | 佐賀県議会議員 下田ひろし オフィシャルブログ

    今回の新型コロナウィルスのような、世界的な感染症への対策については、ほとんど文献が残っていないようだ。その中で、100年前に起こった、いわゆるスペインインフルエンザは、世界的に猛威をふるい佐賀県も半分以上の県民が罹患し、その対応に追われていた。


    今日の佐賀新聞にその特集記事が記載されていたので、記録のため、添付させていただく。
    他にも文献を収集しているので、機会があれば記録としてブログに残します。


    令和2年5月6日佐賀新聞の記事を添付。



    <スペイン風邪と佐賀>100年前 感染症禍猛威、県内は大混乱

    発症者、2週間で2万人・県民感染率は全国2位

    13:02

     約100年前、人類史上最大級のパンデミック(世界的大流行)となった「スペイン風邪」は、数千万人単位の命を奪ったとされる。日本も例外ではなく、40万人近くが死亡し、佐賀では第1波だけで数千人が犠牲になった。新型コロナウイルス感染の拡大が止まらない今、100年前の感染症禍から得られる教訓はあるのか。スペイン風邪の影響をまとめた内務省衛生局の『流行性感冒』(平凡社)をひもときながら、1918(大正7)年10月~19年5月まで、第1波の感染状況を報じた当時の佐賀新聞の記事から県内の状況をみていく。

     1918年10月

    県内の感染状況を報じる記事。佐賀商船学校での集団感染の状況などを伝えている(1918年10月27日付)

     内務省衛生局が編集した『流行性感冒』によると、佐賀でインフルエンザウイルスA型「スペイン風邪」がはやりだしたのは1918(大正7)年10月上旬と記録している。当時の佐賀新聞の紙面で最初に確認できるのは26日付の「悪性感冒襲来」。同省衛生局長の通達として南アフリカの感染事例が紹介されていた。

     翌日の27日付では、県内の感染状況を詳報。現在は世界文化遺産に登録されている佐賀市川副町の三重津海軍所跡にあった「佐賀商船学校」では、クラスター(集団感染)が発生したと思われ、同校内の様子が克明に記されていた。

     ■佐賀商船学校にては去る十七日に二名十八日に三名、二十日に十五六名の患者発生し其(そ)の後毎日十数名の患者を出して…

     28日付には「感冒猖獗(しょうけつ) 県下各学校を襲ふ」と、佐賀市をはじめ唐津市や嬉野市など県内各地の小中学校で続出する児童・生徒の病欠人数を報じた。31日付には「感冒2万人」とあり、国内で流行しだした10月上旬から2週間程度で「オーバーシュート」(爆発的急増)と呼ばれるインフルエンザの猛威にさらされた県内の実態が露わになる。

     ■県下における悪性流行感冒の火の手はその後益々猖獗を極め恰(あたか)も燎原(りょうげん)の火の如(ごと)く全県下を舐(な)め尽(つく)さんとしつつあるが県衛生課の統計に依(よ)れば患者数既に二万人を超え…

     『流行性感冒』では、スペイン風邪第1波の県内感染者数は約40万4千人としている。1917年末の県人口は約70万5千人で、人口千人あたりの感染者数は572・85人。当時の道府県で最も高かった埼玉県の573・59人に次ぐ県民感染率とされた。

     佐賀新聞は早い時期から感染予防を呼びかけていた。具体的な防止策として、(1)部屋の換気(2)感染者の隔離(3)マスクの着用の3点を10月29日付に掲載している。ちなみに『流行性感冒』でも、マスク着用の有用性を説いていた。理由として「(感染の)危険の度を少なくするを以て実用の価値なり」「飛沫性伝染疾患には総て有効なり」と記述。外科用ガーゼによるマスクについては「材料としては不完全なり」と否定的な見解を示している。

    感染予防の徹底を紙面で告知。傍線部は換気や隔離、マスク着用を強調(1918年10月29日付)

     1918年11月

     下旬、終息うかがわせる記事

     11月に入り県内のインフルエンザ感染は深刻さを増していった。3日付では「学校休業五十に上る」と、続々と臨時休校に踏み切る様子を伝えており、最終的な休校数は小中高合わせて130に上った。このころ、高校の体育祭や教育関係の総会など、延期や中止をが相次いでいる。

     同日付の紙面では、「遂(つい)に運転休止」との見出しで、感染が鉄道関係者にまで及ぶ記事を掲載。唐津線をはじめ肥前電気鉄道(嬉野市)、軽便線の川上軌道(佐賀市)の運転手らが発病し、当時の交通動脈だった鉄道網が次々と休業や減便に追い込まれた。さらに、県庁職員30人、佐賀市役所職員12人の感染が発覚し、行政機能がまひ直前にまで陥った。

    11月に入り感染者がさらに増加。学校の休校や、鉄道の休業や減便を報じる記事で紙面が埋まった(1918年11月3日付)

     このころから、市民生活の混乱ぶりをうかがわせる報道が目立ち始める。4日付の記事には、解熱剤のアスピリンの薬価が3倍も暴騰した経緯を紹介。6日付の「会社と興業物」の短信では、佐賀市のどんどんどんの森にあった佐賀紡績(当時)で働いていた女性従業員の4分の1が感染し、会社側が高熱を冷やすため、市内製氷店の氷を買い占め、「製氷屋の商品が底をつきつつある」と報じている。さらに、密集、密閉、密接がそろった劇場や映画館に感染防止のため休業を求めている。

     スペイン風邪による県内の死者は10月下旬から報じていたが、13日付には「死亡者五百名」との記事を、その2日後には「感冒で死んだ950人」と掲載、その猛威を伝えている。同じ15日付の記事には、インフルエンザで亡くなった神埼郡内の医師3人の名前を掲載し、医療崩壊もうかがわせた。

     ただ、同日には、休校していた唐津中学校や佐賀商業など数校が授業を再開させたことを伝える記事も掲載。一週間後には「流行感冒 稍(やや)下火か」との見出しが付けられ、注意喚起の記事掲載からほぼ1カ月が経過した26日付の記事は、終息とも取れる内容になっている。

     ■一時未曾有(みぞう)の猛威を逞(たくま)しくたる流行感冒も追々減退し行き目下佐賀郡松梅村、小城郡南山村の山間部の患者の発生を視(み)、医師の不足に困難し居(お)れる外他には大したこともなく…

    インフルエンザで死亡者が増加。枠内は神埼郡内の医師3人が犠牲になった記事(1918年11月15日付)

     1919年2月~5月

     謎深い軍隊への影響

     『流行性感冒』によると、スペイン風邪第1波による佐賀県内の死者数は、3697人と記録されている。多くの犠牲を払った印象だが、致死率は0・91と全国平均の1・22を下回った。

     実は、スペイン風邪の悪性度は1919(大正8)年夏から始まった第2波が高く、感染者が肺炎を発症すると、2日後には死亡する症例が相次いだとされている。『流行性感冒』でも、第2波の特徴について「病症多くは殊に肺炎等の合併症多く、又時に電撃性なるあり」と記録されている。

     第2波による佐賀県の感染者数は1万6703人。死亡者数は1162人。致死率は6・95と全国平均の5・29を上回った。

     19年2月6日の佐賀新聞には第2波の到来を予測したような、内務省衛生局の警戒を呼び掛ける記事を掲載している。

    第2波への予防を呼び掛ける記事(1919年2月6日付)

     ■一時流行を極めた此の感冒も十二月中旬ごろから終息し出したので安堵したのも束の間で新春から再び流行の傾向を示して昨今之が為め肺炎を併発して死亡する者が多くなって来た此際撲滅を期せねば昨年の災害を再び見る…

     5月30日付には「当連隊の感冒」との記事を掲載。同月上旬に佐賀歩兵第55連隊の兵士数十人が発症したものの、感染拡大はなく、すぐに終息したという。注目なのは、前年の10~11月のピークアウト期でも兵士の感染者は「ごくわずか」とあり、「うがい」と「マスク着用」が予防に効果的と書かれていた。

     『流行性感冒』では、スペイン風邪と軍隊にかかわる記録や報告はほとんどなく、巻末の職業別感染・死亡者表に、現役陸海軍関係者が少人数記されているだけだ。同著解説では、スペイン風邪による兵士の死亡数は相当数に及ぶとしながらも「軍事機密の壁により、内務省の調査が行き届かなかった」と分析。佐賀でも「軍事機密の壁」などで、実態が伝わっていなかった可能性も考えられる。

    軍隊でスペイン風邪が感染が確認された記事。昨秋の流行時では感染した兵士は「僅少(きんしょう)」と報じている(1919年5月30日付)

    ■スペイン風邪■ 1918(大正7)年春、米国や欧州から感染拡大し、パンデミックを引き起こしたインフルエンザウイルスA型の俗称。第一次世界大戦で欧州に派兵された兵士を介して広まったとされ、推定で約2500~4000万人が亡くなった。日本では同年秋から流行がはじまり、20年まで第3波にも及び、内務省衛生局は約39万人が死亡したと推定している。