成幸の階段の昇り方  その3 | 思考の散歩道

思考の散歩道

毎日いろいろなことを考えています。そんな思考の散歩で感じたことを書いていきます。

昨日は、facebookにmixiに、そして携帯メールにと多くのお祝いのメッセージをいただき先ほど全てお礼の返信が終わりました。


ほとんどの人が、実際に会っている人達なので多くの人と繋がっていることに幸せを感じます。



今日は、『やろうと決めてきたこと・昇りたい階段』と『乗り越えようと決めてきたこと・昇らなければいけない階段』を勘違いするとどうなるかと言うお話です。



『乗り越えようと決めてきたこと・昇らなければいけない階段』を昇り始めると、周囲の人たちから認められ、応援されるようになります。



昇っているから許されることがある。



例えば、人の好き嫌いが激しい人。「あの人のここが嫌い、ここが許せない」「あの人のこんなところがダメ」「今の在りのままの自分について来れない人は私から去ればいい。」なんて言っている人。


こんな人けっこう多いですが、『乗り越えようと決めてきたこと・昇らなければいけない階段』を上っている人ならば、世間はその人に対してこんな評価をします。


「あの人は、とても個性的で面白い」とか「あの人の独特な考え方が好きだ」とか「もっとあの人に厳しく言ってもらいたい」とか「あの毒舌がたまらなくいい」


こんな感じの評価になります。




でも、上っていない人が同じ事をやると、世間の評価は・・・・・



「あのひとは、わがままだ」とか「あの人の言っていることはいいけれど人間的に嫌い」とか「あの人に何か言われると腹が立つ」とか「あの人はいつも偉そう」等など



同じことをやっても全く評価が異なってしまいます。



前者は益々熱烈な応援者が増えて、自分のやりたいことを後押ししてくれるようになります。



で・・・・



後者は・・・・




前にも書いたように火消しの人生になります。




やりたいことをやり始めてしばらく経つとトラブルが発生します。このトラブルがまた建設的なトラブルではない。


上手く行く人にもトラブルは発生する。



でも



うまく行く人に起るトラブルは次の階段を昇るための準備になるのに対して、後者の上手く行かない人のトラブルは上に行かせないようにするために発生するトラブルです。



成功哲学に毒された人たちは、自分に起ることは何でもいいほうに捉える『ホジティブ・シンキング・ヲタク』ですから、そのトラブルが自分を上に行かせないために起っているトラブルなのに自分を上に向かわせるために起っているトラブルと強引に摩り替えてそのトラブルの本質を見ようともしません。



自分を上に行かせないように起っているトラブルに大して「ついてる、ついてる、感謝します、ありがとう、許します、全てを受け入れます」と言いながら頑張っている割には傍から見るとほとんど上に行ってません。



こう考えると・・・・・・



『乗り越えようと決めてきたこと・昇らなければいけない階段』を昇ることで得られるものは『徳』じゃないかと自分は確信するようになりました。


この階段を上りながら得られる体験は徳を積んでいく。


だから最初に『乗り越えようと決めてきたこと・昇らなければいけない階段』を昇らなければ、自分が本当にやりたいことは成就しないわけです。



みなさん、徳積みしていますか?