お釈迦様が言うに、世の中には生、病、老、死の4つの苦があるらしい。
そしてさらに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の4つの苦。
これらを合わせて四苦八苦。
とくに最初の四苦は、お釈迦様がこの世の不条理を感じ、
今ある暮らしを捨て出家に至るきっかけともなった苦だ。
苦しみは煩悩から生まれる。
様々な修行を経て、ついにお釈迦様は菩提樹の下で悟りを拓かれる。
あらゆる煩悩や輪廻から解脱され、涅槃の境地に至ったのである。
それから二千数百年以上経った現在。
特にこの日本において、仏教は大部分の人にとって宗教としての意味合いではなく
葬式などの単なる儀式として息づいている。
仏教の教えとは単なる過去の産物に過ぎないのか?
私自身もそう思う。
生病老死の四苦は、お釈迦様が生きていた時代ほどの苦しみを持ってはいない。
ただし、苦しみが一切無くなったとも思わない。
苦しみやそれを生み出す元凶である煩悩は、
時代とともにその形を変え、さらに多種多様に渡り、個々人に分散され
多くの人が共通して持つ苦しみが無くなった様に見えるだけだ。
生老病死の四苦は、今や単なる象徴に過ぎない。
実体のない象徴に共感できないので、
今お釈迦様の教えをそのまま聞いても実感が湧かないのは当然のことだ。
ただし、個人に還元して見ると苦しみは確実にそこにある。
お金がない。
いい仕事に就けない。
人間関係がうまくいかない。
思い返してみれば、いくらでも湧き出てくるだろう。
そしてその原因は、それを生み出す煩悩にある。
つまり欲求があるから、それを成し遂げられない苦悩が存在するのだ。
本質は変わっておらず、その具体例にピンとこないだけの話だ。
二千数百年前の人の具体例に共感できないのも当然であろう。
そうであるならば、その苦しみから解放される術も
本質こそ似ているのかもしれないが、
具体的手段は現代的に自身でしていかなければならない。
昔と同じようにお経を唱えて救われる人がいるのであれば
それはそれで結構。
私自身もそのような手段を揶揄するつもりは一切ない。
むしろそれも1つの手段として、尊重すべきものだと思う。
ただ私はその術を自分で考えたい。
最近になって昔では到底考え付かなかった(むしろ否定的であった)
運命(宿命?)というものを感じるときがある。
今自分に起きている現象は、最初からそうなると決まっていて
何か必然性があって起こっていることなのだと。
誰かに会うのもそう。
今群馬に住んでいることもそう。
来年から某会社で働くのもそう。
すべて自分で決めているように見えるが
最初から結果が決まっていて、
そこに見えない力が働いてその結果に結びついていく。
つまり選択ありきの結果ではなく。
結果ありきの選択なのである。
物事にすべて理由があるように、
今自分に起こっている現象にも理由があるように思えて仕方がないのだ。
昔は自分がこういう選択をしたから、この結果になったで終っていた。
しかしながら今は、
今自分がこういうことになっているのは、この先のこんな結果に結びつくからではないのか、
と予想するようになり、その予想に運命を感じるのである。
違いがうまく説明できてないかもしれないが
感覚的にそう感じるのである。
こういう結果になるのであれば「じゃあどう動こうか」という計画が立てられる。
つまり結果を受け入れて、その先の行動に移せる気がするのだ。
これは予測もしない結果に苦しみを覚え、過去の自分の行動を恨み
更なる苦しみの連鎖に苛まれることから解放されている気がする。
未だ確信ではないが、お釈迦様が苦しみから解放された悟りに何か近いものを感じるのだ。
お釈迦様が苦しみの存在に気づき、出家したのは29歳。
私は何となくながらこれから自分がどう生きていくのかを感じ始め
社会人として働きながら更なる経験を積んでいこうとしているのが24歳。
形は違えど、今までの生活を捨て、それぞれの修行の道に入っていく。
お釈迦様が悟りを拓かれた、涅槃という形を示したのは35歳。
私自身もこれから様々な経験をして、何か形を残したいと思う。
苦しみを抱えながら生きるのではなく
運命の糸に引き寄せられるように自身が出来ることを全うしようと決めた。
この先、様々な経験を経て考えも変わっていくのかもしれない。
しかしそれでいい。
それは何か必要とあって私に取り入れられるのだから。
どうせ最後は死が待っている。
別に足掻こうというつもりはないが、避けられない運命が待っている。
何もせずにそれを待つのではなく、
様々な運命に意味を感じ、それを受け入れ、
最大限に全うしてやりたい。
これまでの人生の中で、特に私は知る喜びを知った。
だからこそ、自分自身に在る運命を知り、それを意味あるものにしていきたいのである。
私が今こうしてこのようにしたいと思うのにも理由がある。
このように思わなければ、結局何もしないまま、何もしないなりの結果があったはずである。
しかし私は何かに気づき、動こうという意志が生まれた。
お釈迦様も四苦に気が付かなければ悟りを拓くことはなかったはずである。
仏教の教えを忠実に遂行しようとは思わないが
お釈迦様の生き方は見習いたく思う。
この先私を待ち受けているものは何であるのか。
私はどのようにして動いていこうか。
私は私自身のどんな答えをだすのだろうか。
さあ楽しくなってきた。