出ていった彼女、広い部屋とすきま風、どこまでも高かったあの空

 

 

彼女が今日、家を去っていった。

 

タイミングさえも合わなくて、手伝うこともできなくて、

出勤している間に、ひっそりと、二人で住んだこの家を去っていった。

 

ずっと、そんな二人だった。のかもしれない。どこかかけ違い続けた二人。

けれど、僕は間違いなく、彼女のことを愛していた。

そんなこと、今になって呟いてみても、彼女は戻ってくるはずもないのに。

 

 

帰宅して電気を点ける。

朝出た時と変わらないはずのダイニングにまで、「彼女がいない」空気が漂う。

 

静かな夜。

昨夜だって静かだったはずなのに。

広い部屋。

昨日も今日も、部屋の広さは変わらないはずなのに。

 

がらんとしたダイニングで一人カップ麺をすする。

「でもこれで、人に合わせるストレスからは解消されるしな」

「一人の方がなんだかんだ楽だよ、飯もYouTube観ながら食べられてるじゃん」

 

彼女がいなくてせいせいした、これでよかったんだって、

これからの一人生活のメリットが頭の中をぐるぐると渦巻いていく。

 

でもそれは、苦しくて、寂しくてしかたない自分を慰めるための、

せめてもの防衛でしかないこともよくわかっていて。

「一人でいいんだ」「一人こそがいいんだ」と思えば思うほどに、

彼女が自分にとってどれだけ大切だったかを思い知らされる。その、ピエロな自分。

 

一人寝る。広くなったベッドで大の字に。

先に寝る彼女を気にしての忍び足も、今日はしなかったなと気づく。

面倒に感じていたはずなのに。

もう、朝になっても「また夜中に肘でパンチされた」となじられることもない。

気をつかう相手が「いないこと」がこれほど重く響くとは、思わなくて。

まぶたが震えそうになる。寒いのは外が寒いせいだ、と、思いたくて。

 

延々と繰り返す寝返り。

何時間も眠れなくて、ガラにもなく、煽るように冷蔵庫の缶ビールを干す。

真っ暗な部屋。冷蔵庫から漏れる光。

もう、酒を飲んでも怒られることはないし、怒ってくれたその人はいない。

 

 

朝。

いつ眠ったのかも分からない気怠い自分に、

生まれたての子どものような透き通った光はキツかった。

朝日さえも自分にはもったいないような、後ろめたさと寂しさ。

寂しさの方は強いて考えないようにして、着替える。

 

最寄り駅の周辺が少し前から区の開発対象エリアになっていた。

昔ながらの商店が立ち並ぶその一画が、綺麗に取り壊されて更地になっている。

思わず写真を撮る。

撮ってしまって、それを送る相手がいないことに気づく。

自分の中には深く深く、彼女が、あなたがいる。

 

そこまでだった。

それが限界だった。

 

鼻をつくツンとした刺激。

まぶたが重たくなって、頬の周りがぼーっと熱くなる。

大粒の涙を拭いながら、ぐるりと振り返った。

 

振り返っても、帰る場所もない。

家には帰りたくない。

とりあえず人の目を避けるように商店街の通りを外れる。

 

外れた先に見つけた小さな公園で荷物を下ろして、ベンチで泣いた。

ただ泣いた。

泣くことしかできなかったから。

子どものいない時間でよかった、なんて、

こんな時にまで頭が自分をばかり気にすることすらがどうしようもなく嫌で。

 

ハンカチはしめっていく。

彼女の好きなディズニーキャラクターをあしらったハンカチ。

彼女の好みに合わせて買ったものだった。

よりによって何でこんなものを。

でも、気づかないくらい当たり前に彼女は僕の一部なんだと。気づいても遅くて。

 

 

ひとしきり泣いて、馬鹿みたいに泣きはらした目でふとまっすぐ見上げた空。

 

まっすぐ見上げたその空は、とても高くて、そして青かった。

白い雲が切れ切れに浮かんでいて、なぜだかはわからないけれど、

それが憎たらしくも、「なんだよ…」と、すこしだけ愛おしくもあった。

 

僕はあのとき名前も知らない公園で見上げた空のことを、きっとずっと忘れない。

 

 

我慢させてばかりでごめん。

本当に本当にずっとありがとう。

幸せになってね。

それを願うことしかできないけれど、それだけは願っているから。

世界の切れ端のような、あなたの去ったこの街から。せめて誰よりも強く。