松倉重政という男(・∞・) | 島原城七万石武将隊

島原城七万石武将隊

島原城を拠点におもてなしを行う島原城七万石武将隊による日記。


(・∞・)クルッポー

高力 摂津守 忠房にございまする。
本日も閲覧、ありがとうございまする。
夜分遅くにすまぬが、どうしてもこの日記を本日皆に見せたかった故、綴った次第。
ご容赦下され。

本日は同じ武将隊である松倉様――松倉重政様――の命日でございまする。




(松倉様と一緒に写っている写真が思いの外少なくて驚いた……)


松倉様といえば、いけめん、であるとか、
笛が上手いとか、
あま姫にでれでれしておるとか、皆、色々印象があるとは思う。
現世を生きる松倉様も良いが、私は四百年前の松倉様のことを話そうと思う。



松倉様は我らが拠点の島原城を築城した方である。
元々松倉様は私や有馬様、忠雄様とは違い、大名ではなかった。
奈良の筒井家に仕えた方であった。
それが関ヶ原の戦いにおいて家康様に目をつけられ、奈良の五条(現在の五條市)を治めるようになり、
大阪の陣を経て島原の地に参られた。
筒井家の家臣から最後は島原城の城主になったのだから凄いものである。
当世で表現するならば、筒井会社の部長であった松倉様は最後には株式会社松倉重政を立ち上げたようなものだ。
……ぴんとこないやもしれぬな。
ともかく、文字通り一国一城の主になられたのである。
そこから島原城を築城しただけではなく、武家屋敷の基礎や城下町をつくられた。
今、島原の地が賑わっているのは、松倉様が城を築城し、町を整えたからであろう。
偉大な方である。


しかし、松倉様のことをあまりよく思わぬ方もいらっしゃる。
詳細は省くが……察していただければありがい。
私はその方々が松倉様のことをよく思わぬことを責めるつもりはない。
無理に彼を好きになる必要もないであろう。
ただ、彼を極悪非道なだけの武将とは思ってほしくないのである。


現在の五條市が発展する基礎を作ったのも、
現在の島原が発展する基礎を作ったのも松倉様である。
当世にまでその地盤が残っておるのかと思うと、やはり松倉様のすべてを責めることなどできないのではなかろうか
……と私は思うのじゃ。




語りすぎか。
当世に蘇る以前に私は松倉様と出会っている。
大阪の陣では共に戦った仲である故、このような日記を書いた。


松倉様の墓は島原の江東寺にある。
島原城から歩いて十五分ほどのところであろうか。
入り口が、商店街のあーけーどに直結しているので、比較的足を向けやすい場所であると思う。
皆が島原に来た際には足を向けていただきたい場所の一つである。
また、島原にいらっしゃる以前の奈良五条(現・五條市)の西方寺にも松倉様の慰霊碑があると聞いておる。
いずれ、私もこちらに足を運んでみたいと願っておる。何か機会があればなぁ……。




松倉重政という男の一部分を紹介させていただいた。
松倉様のことを少しは分かっていただけただろうか。
松倉様への想いも綴った故、なんだか恥ずかしいのぉ……。
明日は共に出陣じゃが……どんな顔で会おうか悩むの。


ともかく。
本日はこれまで。
長々と失礼いたしもうした。
読んでいただき、ありがとう(・∞・)ッポー


高力摂津守忠房