うんとこどっこいしょ
うんとこどっこいしょ
なんでもできちゃうはずなんだ
…(不明) いちにのさん
もすこしあとちょっと
もすこしあとちょっと
(repeat)
「お経…じゃないよね?」
恐る恐る声を掛けられハッとした。どうやら鼻唄を歌っていたようだ。
油断していた。しかし恥ずかしさよりも先に、質問者の「データ入力中にお経を唱える」という発想に、ちょっと心打たれた。キーボードを叩きながらお経をあげる修行僧の姿をイメージする。シュールだ。
「面白いこと言いますね。昔のCM曲だと思いますが、記憶が定かではありません。もしやこの曲ご存知ですか?」
「いや、知らない。ただ、仕事中に面白いことしてたのは君だからね。」
「油断してました。すみません。」
ドライアイと花粉症による目の痒みに堪えきれず、ひたすら目を掻き続けた2月。
ドライアイが治ってきたと同時に鼻の奥に泉が湧いた3月。
「2月は何してた?」と問われれば迷わず「目ぇ掻いてた」と、「3月は?」の問いには「鼻かんでた」と答えるだろう。
『皮膚の薄い目の回りにまでお使いいただけます』というドモホルンリンクルの泡パック、誰か買ってください。
そんな過酷な状況下、声の主は現れた。
「目、…りすぎ…よ。」
私に向けられたかどうかも判らない、蚊の鳴くような声。顔を上げても誰もいない。空耳か。初めはそう思った。
しかし、その日の午後に再び、
「ホント、擦りすぎだってば。」
1度目より幾分大きな声に顔を上げると、挨拶すら交わさない他部署の社員らしき男性が立っていた。
慣れない仕事→花粉症で集中力低下→ミス…負の連想はいつも高速だ。脊髄反射的に頭を下げようとして、はた、と気付く。
擦りすぎ…この人はさっき確かに「擦りすぎ」と言っていた。私の仕事は書類をチェックして検印を押したりパソコンのキーボードを叩いたりが主だ。何かを擦るような動作に心当たりはない。
(はて…?)
数秒の間、そんなことを考えながらぼんやり彼を見上げていた。あ、この人、ムロツヨシに似てる…そう気付いたとき、おもむろにヒヤリと冷たい物体を手渡された。
それは、カチカチに凍った保冷剤だった。
「痒かったら目の回り冷やしなさいよ。これ、未使用だから。ちゃんとハンカチで包んでね。」
そう言い残しフロアを去った彼。歩く後ろ姿に微かな違和感。私は確信した。
ムロツヨシな彼は、恐らくゲイである。
後日、この保冷剤事件はフロア中に知れ渡ったわけだが、当事者の地味さに加えて事件自体が奇妙且つ不可解だったお陰で、ゴシップ好き女子達を刺激することはなかったようだ。
そして今日もまた、冒頭のような会話が静かに交わされている。
しかし私は彼の名前を、未だ知らずにいるのである。
(つづく)