永井隆先生は人類の幸福と平和のため、心魂を傾け尽された医師です。

 

永井先生と言えば「長崎」のイメージが強いと思いますが、実は島根県松江市の

お生まれ、そして雲南市で幼少期を過ごされています。

 


お父様が三刀屋町で開業された診療所(兼ご住居)は、現在も雲南市によって

大切に保管されています。

 

 

 

永井先生は松江高校をご卒業後、長崎医科大学(当時)で放射線医学を専攻されます。

当初は内科志望だったそうですが、ご病気で耳が不自由になり、研究の道を選択され

たようです。

 

当時「治らない病気」と言われていた結核を研究するため、X線検診に従事されました。

 

 

戦時中はフィルム不足で、透視による診断を続けたため、被曝による白血病と診断され、

余命3年の宣告を受けられてしまいます。しかし、病気の体にも関わらず、熱心に治療と

研究を続けられました。 

 

 

戦争は更なる悲劇を巻き起こします。長崎に原爆が落とされ、爆心地から700mしか

離れていない大学の研究室にいらっしゃた永井先生も被爆されてしまいます。

 

奥様やご学友、仲間を失い、自らも重傷を負いながら、医師として負傷した市民の

救護活動にあたっておられます。

 

 

この度重なる困難な状況にも関わらず、永井先生は研究を続けられるのです。

新たな症例「原爆症」の研究を、まさに自らの身体をもって、続けられました。

 

その後、病が進行し、お体が自由に動かなくなっても

 

「腕や指はまだ動く。自分には書くことが出来る!」

 

と、執筆活動を始められました。

 

 

レコード化された名曲「長崎の鐘」や映画化された「この子を残して」等、

著書14冊、多くの画や詩歌を残されています。

 

雲南市 永井隆記念館(※改装中)

 

永井先生が残された功績は著作だけでなく、「子供図書館」の設立や桜の木にも

見ることができます。

 

晩年、灰色の街となった長崎の街を「桜」で埋め尽くそうと、著作で得られた印税から

約1200本のソメイヨシノの苗木を購入し寄贈されました。

 

これらの桜は長崎市民から「永井千本桜」と呼ばれ、親しまれました。

(残念ながら現在は、宅地開発や台風被害などで20本程度に減少しています) 

 

雲南市の「御衣黄桜」

 

永井先生ゆかりの地「雲南市」には斐伊川堤防の桜並木があり、もしかしたら

故郷の風景がヒントになったのかもしれません。

 

斐伊川堤防の2kmにも連なる「桜のトンネル」は、満開を迎えようとしています。 

 

 

世界中がストレスにさらされている現在、私たちがこの困難を克服するためには、

「己の如く人を愛せよ」と訴え続けた永井先生の隣人愛、そして不屈の意思を引き継ぐ

必要があるのではないかと思います。

 

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