今日は、村下孝蔵さんの命日

中学時代から競泳の平泳ぎの選手として活躍した村下は[2]、オリンピックを目指し[11]、水泳部の特待生として鎮西高等学校体育科に入学し[出典 8]、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した[21]。水泳をやっていたのは小学校4年のとき『海の若大将』を観て感動したからである[8]。

高校を卒業後、広島へ

1971年、高校を卒業した村下は大学進学を諦め[11]、得意の水泳でスカウトされ[25]、実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入り[出典 9]。朝7時半に出社し正午まで仕事[8]。午後1時半から夜10時まで猛烈な練習[8]。1日1万2,000メートルを泳ぎ、腹筋、背筋練習の後、君原健二と2キロ走る[8]。当時のスポーツ選手の合言葉は「勝負に泣くな、練習で泣け(飛田穂州)」[8]。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝[21])とはいえ実業団の中では平凡な選手[注釈 2]で、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたら[11]、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められ入部。

〜中略〜

宴会部長として活躍するが[出典 11]、ハワイアンが自身の音楽志向に合わず[23]、同年9月に同社を退職[出典 12]。その時の無念さは言葉では言い表せないものだった[8]。落合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している[28]。当時父親は東洋工業(現マツダ)に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った[出典 13]。当時の広島はフォークの聖地で[23]、村下の頭には広島フォーク村の存在があった[出典 14]。村下は浜田省吾と同学にあたり、もう1、2年早く広島に転居して、吉田拓郎在籍時の広島フォーク村に参加していたら、違う音楽人生になっていたかもしれない[32]。