夏まつりの屋台
どんな屋台を思い浮か
べますか?

テレビドラマにでてきたのは
ベビーカステラの屋台
”愛媛県“では、
『東京ケーキ』ですよね~

ちょっと調べてみました。



「もともと長田神社や生田神社など神戸市内を中心に、お祭りで屋台を出していました。商売自体の代をたどると20代ぐらいになります。露店商の人を集めてお世話をするプロモーターの役割をしていたのですが、その役を引退して息子に代を渡すため、2013年6月に店舗を構えました」と話す。

ベビーカステラは、繁治さんの祖父、加島繁蔵(当時は加嶋)さんが「湊川神社の祭りでベビーカステラを売りに来た人からカステラ焼き機を買って作るようになりました。その人は、西宮から来ていると聞きました」と繁治さん。発祥はわからないが、大正時代には西宮で売られていたことが判明した。

「戦時中の配給制度だったときにも、おじいさんが四国に売りに行っていました。神戸からも材料を持っていき、現地でも調達して。宝塚の清荒神や兵庫県高砂市の曽根とかも行ったことがあります」と繁治さんは話す。

その後、戦後の復興期になり、徐々に同様のカステラを売る店が増えていったと見られる。「西宮・神戸あたりではちんちん焼、明石では福玉焼、姫路は松露焼と言っていました。神戸は玉子焼とも言います。戦後、復興し始めた昭和25年ぐらいから、紙の袋に入れてそうした名前を印刷するようになりました」(繁治さん)。

  中にとろっとしたクリームが入った福玉焼

明石で福玉焼を始めたのは、明石市に拠点を置く夢工房である。戦後復興期に、明石市にある石屋神社で売り始めた。古志さんは「最も古いのは加島さんではないか」と話す。「うちの祖父とやり取りがあったと聞いている」。

福玉焼の特徴は、中にとろっとした半熟クリームが入っていることで、レシピは同店を立ち上げた古志利宗さんの祖父が考案した。この地域でしか販売しておらず、観光客に人気があるだけでなく、地元を出た人が帰郷する際、懐しがって買いにくることも多い。

兵庫を中心にさまざまな呼び方がある理由はいくつかありそうだ。ベビーカステラは神社の祭りなどで売られることが多かったが、古志さんによると、当時から「それぞれの露店商に決まっている場所があり、既に販売されている同じ商品を新規で参入するのは難しかった」。

また、「炭火でカステラを焼く機械は鉄製で重量もあり、これをリヤカーなど手押し車で運べる範囲にも限りがあった」。こうして、それぞれの店が、それぞれのレシピで、地元密着型の商売をしてきたわけだ。


加島屋にある最古の焼き釜、通称「回機」。ズックと呼ばれる合金で作られているが、何の合金かは不明だという。おそらく100年以上前のモノ(写真:加島の玉子焼提供)

  「ベビーカステラ」と名付けた店

その後、1954年に神戸界隈で出店していた三宝屋が「ベビーカステラ」と名付けた。同店の3代目、高瀬富久さんは「歴史から言うと、うちより加島さんや夢工房さんのほうが古いのではないでしょうか」と話す。

祖父がみようみまねでカステラ屋を初め、当初はカステラを焼く機械に鈴がついていたことから「ちんちん焼」という名前で売っていたが、高瀬さんの母親がベビーカステラと名付けたという。ここから徐々にベビーカステラという名前が世間に浸透していったようだ。

高瀬さんによると、三宝屋では祖父の時代にカステラを焼く機械を西宮の鉄工所に作ってもらっていたという。各地へ広まったのは、「三宝屋さんがカステラの機械を鉄工所で作らせて、作り方も含めてあちこちへ売り込んだ」からと加島繁治さん。古志さんも京都にベビーカステラを広めたのは三宝屋だと証言する。ただし、誰が最初にカステラの型を発明したかは不明だ。

その後、プロパンガスが普及したことで火力が安定したことに加え、機械の移動も楽になり、さらに広い範囲へ広がったとみられる。だが、繁治さんによると、「東京でベビーカステラが広がったのはここ30年ぐらい。戦前はなかった」。

1943年生まれで、阿佐ヶ谷で育った筆者の叔母は、「私が子どもの頃はなかった。50歳の息子の子どもの頃は屋台で見かけた」と話すが、大田区で育った48歳の女性も「子どもの頃に見た記憶はない」と言う。

つまり、東京に広がったのはここ30~40年のことかもしれない。夢工房の古志さんは、「東京のお祭りには、あんず飴など関西ではめずらしい屋台がある一方で、ベビーカステラはほとんど見たことがなかったので新規参入しやすかったのではないかと思う。利益率、客単価も高いので地代などを考慮しても利益を生み出しやすい商品だと思う」と話す。

3店の話をまとめると、ベビーカステラの発祥は100年以上前で、西宮周辺の可能性が高い。もしかすると西宮神社かもしれない。それが周辺地域に広がり、関西で定着した。

  常設店舗が増えている背景


現在でも最も忙しいのは、「正月とえべっさん(兵庫区の柳原蛭子神社の十日えびす/1月10日前後の3日間)、厄神さん(多井畑厄除八幡宮の厄除け大祭/1月18~20日)。この時期で1年の3分の1の売り上げを上げていた」(繁治さん)。

が、そのうち、三宝屋以外は常設店を構えるように。「店を構えてからは、正月や近所の長田神社の祭りで行列ができる以外はそれほど忙しいわけではないです。でもここ10年、20年で他店も含めベビーカステラ自体がすごく売れるようになりました」(繁治さん)。

三宝屋は常設店こそないものの、スーパーの前に出店するなど出店範囲を広げている。「もともとお祭りでは人気のメジャー商品でしたが、コロナ禍になってからは、お祭りなどがなくなり、スーパーの前に出店したり、常設店を構えるところが増えたのではないでしょうか」と高瀬さんは見る。

今流行する常設店の最初は、加島の玉子焼かもしれない。ただ、1965年生まれの夫が小学生時代、大阪・東住吉の駒川商店街で冬はベビーカステラを売る常設店を見たと言っているので、もしかするとベビーカステラを売る常設店自体は、昭和時代に関西の商店街には存在していた可能性がある。

もともと地元密着型の菓子だったこともあって、店によって味が違うというのもベビーカステラの特徴だろうか。

たとえば加島の玉子焼は、「うちは初代から代々続く配合を守っている。火加減も大事。フワッとしていて、冷めてから本当の味がわかる」(繁治さん)。一方、三宝屋は「祖父の時代から、昔の味のままで甘みは抑え気味。隠し味にしょうゆを使っている。福玉焼はみそを入れているとも聞いたし、それぞれの店にこだわりがある」(高瀬さん)。

  もともと各地に似たようなカステラ菓子があった

発祥については諸説あるかもしれないが、関西でベビーカステラ屋が定着したのは、もともと各地に似たようなカステラ菓子があったからではないか。そうしたカステラ菓子を売り出したのは、せんべい屋である。


三宝屋が作った「回機」。「父親(繁治さん)が小さいころからあったとのことなので、75年以上の前のものになります」

神戸煎餅協会によると、関西スタイルのせんべい「瓦せんべい」は1868年の神戸港開港により、洋風イメージの新しい菓子として誕生。湊川神社の土産物になり、神戸の名産品として定着した。瓦せんべい屋が野球カステラを売り、屋台ではベビーカステラが誕生。柔らかめでほの甘いお菓子が愛されるようになった。

一方、関東では草加せんべいが代表するコメが主原料のパリパリでしょっぱいせんべいが定着している。パリッとした食感や外が固いなどメリハリが利いた食べ物は関東で好まれ、柔らかめでほの甘い菓子は関西で好まれる傾向がある。ベビーカステラは、いかにも関西人好みのおやつと言える。

ベビーカステラについて問い合わせていると、やり取りをしたうち何人かが「ベビーカステラの口になってきました。買いに行ってきます」と言い出した。やはり関西人はベビーカステラが身近で好きなのではないだろうか。










東京ケーキです。

ベビーカステラです。

同じでしょ。


松山なのに東京?


千葉なのに

東京ディズニーランド


と同じ?