「そこまで言って委員会NP」(日曜後1・30)はフランス特集


7月26日に開幕するパリ五輪。26日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」(日曜後1・30)はフランス特集を行い、出演者があと2カ月に迫ったパリ五輪への期待を口にした。

 ブレイキンなど新競技への関心が高い出演者が多い中、劇作家の大野裕之氏(49)は注目競技に「水泳」を挙げた。その理由は、出身高校の大阪府立茨木高校にある。





 実は日本で初めてプールを作ったのは同校。「当時の大阪府知事が体を鍛えるために泳がないとあかん、と言ったらしいんですけど、海が遠かったんです。だからグラウンドを掘って作ったらしい」。それが功を奏した。すぐに泳げるという環境は大きく、在校生はメキメキと泳ぎが上達。大野氏は「100年前のパリ五輪で、競泳で日本人初の入賞をはたした高石勝男さんは、うちの卒業生なんです」と誇らしげに語った。



しかも、このプール造成に一役買ったのがノーベル文学賞作家の川端康成だった。「ちょうど作ったときに学生やったのが川端康成だったんです」と大野氏が明かすと、スタジオは騒然。「ただ彼は体が弱かったので土を掘る役ではなく、運ぶ役やったそうです」とオチもつけた。川端康成から脈々と続く競泳ニッポンの歴史。「100年経ったパリで日本の競泳がどういう成績を残すのか期待ですね」と話していた。






茨木高校(現大阪府立、旧茨木中学)に、古くから大きなプールがあったことは知っていましたが、そこが日本の近代水泳の出発点だったことは知りませんでした。 
茨木中に日本初の学校プールが造られたことは、100年を迎える日本水泳史のなかで特筆すべき出来事だったのです。茨木中では1916(大正5)年、生徒たちの手作業で水泳場が造られました。当初は校庭に作られた池のようなもので, 大きさは 南北30m・東西 18m。 これを「水泳池」と呼んでいました。水は近くの茨木川から引き 周囲を板で囲っただけの簡易プールでしたが、19(大正8)年には、長さも50メートルに拡張し正式なプールとなります。

競泳研究特別班」を編成し、杉本伝(つたう)氏(1889?1979、大阪水泳協会初代会長)の指導の下、後に日本水泳連盟会長になる高石勝男選手や入谷唯一郎選手らが、クロールを採り入れ、東京の大学も圧倒しました。当時主流は横泳ぎなどで、先見性を持った茨木中は「水泳ニッポン」の基礎を築いたのです。

 1928(昭和3)年のアムステルダム五輪では、早稲田大に進んだ高石選手が100メートル自由形で銅メダルを獲得します。この勢いは、4年後のロサンゼルス五輪(1932)では競泳で12個のメダルを獲得するという快挙に繋がり、欧米の水泳大国をも驚かせました。100メートル背泳ぎでは、メダルを独占。2位の入江稔夫選手も茨木中出身でした。
今年で創立100年を迎えた大阪水泳協会も、日本水泳連盟の発足より12年早く、都道府県の水泳団体としては最古の歴史を誇り、まさに「水泳ニッポン」の原動力でしたが、発足当初は茨木中のプールが拠点でした。

 「手作りプール」が、やがて国際的な水泳選手を多数輩出し、日本のスポーツ界にも大きな貢献をしたことは、近代日本の発展を支えたひとつの物語として、これからも語り継がれることでしょう。


  茨木人脈、競泳ニッポンの礎に



旧制茨木中の水泳部出身者は指導者としても競泳ニッポンを築く原動力となってきた。元イトマンスイミングスクール(SS)名誉会長の故・奥田精一郎は、茨木中で杉本伝の教えを受けて水球の日本代表に選ばれ、早大でも活躍。戦地から復員後は家業の造り酒屋の経営に携わるが、水泳指導者へ転身した。
1965年にロート製薬の山田輝郎社長(故人)が私財を投じ、大阪市に英才教育のための山田スイミングクラブを開設。奥田はコーチとして、72年ミュンヘン五輪で金の青木まゆみらを育てた。同五輪後に同クラブが解散すると、指導法などを引き継いだイトマンSSへ転じ、会長や名誉会長を務めた。全国展開するイトマンSSからは山本貴司、入江陵介、大橋悠依らの五輪メダリストが生まれている。



我が伊都高校も

手作りプールです。

生徒が穴を堀り

セメントを流して作ったということです。

高飛び込み台も

あったんです。