「はっぴいえんど」は、日本のロック界に大きな影響を及ぼしたバンドのひとつだ。英語で歌うべきものとされていたジャンルで、母国語である日本語の歌詞を作った彼らに、世界的なロックバンド「ビートルズ」を生んだ英国の「ガーディアン」紙が取材した。

  「歌詞を翻訳すれば、意味が変わってしまう」

1969年、松本隆と細野晴臣がロックバンドをはじめようとしたとき、二人はある選択を迫られた──当時のロックの共通語である英語で歌うか、日本語で歌うか。議論の末に二人は母語を選択し、そうすることで、日本の音楽の流れを完全に変えたのだった。

松本、細野、そして鈴木茂と大瀧詠一によって結成されたバンド「はっぴいえんど」は、西洋風のフォークロックと日本語のボーカルを融合させた。この決断は、近年ネット上で人気がある80年代のシティ・ポップ・ファンクから、現代のJポップに至るまで、日本のあらゆる音楽に影響を与えている。

「僕の母語は日本語です。歌詞を翻訳すれば、間にフィルターを挟むことになります」と、74歳になる松本は東京の都心を見下ろす会議室で語る。「元の意味を変えてしまうのです。そうなれば、もうそれは僕の直感でも、僕の言葉でもなくなってしまいます」


1970年から1973年の間に、はっぴいえんどは3枚のアルバムを発表した。この3枚ともが最近、レコード盤で再発売された。

この4人組の影響は、アルバム発表から何十年も後にまで及ぶ。国内の評論家たちは、はっぴいえんどの作品をはじめから評価していたし、アルバム『風街ろまん』(1971年)は名盤と称えられている。このアルバムは、日本国内のベストアルバムの上位に、いまでも定期的にランクインする。


「当時のミュージシャンは、クリームやジミ・ヘンドリックスに憧れていました。誰もが彼らの音楽をコピーして競い合ったものです。僕はそういう環境のなかで育ったわけですが、はっぴいえんどでは、自分たちの言葉を使うことで、独自のものを作ろうとしました」

そう語る細野はのちに、シンセポップ・グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーとしてさらに有名になった。




  姿を変える東京を歌う


はっぴいえんどは、松本と細野がメンバーだった「エイプリル・フール」というバンドから生まれた。ビートルズやモンキーズのサウンドを模倣するグループが主流だった当時、エイプリル・フールのサイケ・ロック・サウンドは彼らの存在を際立たせたものの、その歌詞はやはり英語だった。




だが、例外があった。松本が日本語で作詞した二部構成の楽曲「母なる大地」だ。本作は、松本の故郷、東京の街が急速に変わりゆく現状と、それに伴い失われていくものについて歌う。

「1964年の東京オリンピックは、東京を大きく変えました。街のあちこちを流れていた川は埋め立てられ、幹線道路や高速道路が作られ、路面電車は道路建設のため撤去されました。こうしたあらゆる建造物のために、街はすっかり変わってしまったのです。空は遮られ、もはや、まともに見ることもできません」

エイプリル・フールは、ボーカルの小坂忠がミュージカル『ヘアー』日本版に出演するのが決まったことで解散する。

松本によれば、彼と細野はそのころ、バッファロー・スプリングフィールドやグレイトフル・デッド、モビー・グレープなど米西海岸のロックに惹かれるようになっていた。そうした雰囲気のバンドを作りたいと思っていたという。

細野は、ボーカルとギターの大瀧を誘った。そして大瀧は、ビートルズやアソシエイションの影響を受けたメロディアスな要素を持ち込んだ。

「ある日、大瀧が細野に電話して、こう言いました。『バッファロー・スプリングフィールドがいい理由がようやくわかったよ』と。この瞬間、僕らは意気投合したのです」と松本は笑う。



そこにギターの鈴木が加わり、メンバーがそろった。1970年代の東京のロックシーンにおける、はっぴいえんどの位置付けについて鈴木に尋ねると、彼はこう語った。

「大人に押さえつけられることなく、自分たちの感情を素直に情熱的に表現していました。“純粋”でしたね。これこそ、当時の僕らを表現するのにふさわしい言葉です」 


ホントに、はっぴいえんど

良かったですよね。


大瀧詠一

細野晴臣

松本 隆

鈴木 茂


その後の、

ティンパンアレイ

YMO


いいですね。


細野晴臣

トロピカルダンディ



最高で〜す。