テレビ『なんでも鑑定団』に
ツェッペリンが登場しました。
あの飛行船です。


ツェッペリン号は、ツェッペリン伯爵が発明したドイツの硬式飛行船で、1900(明治33)年に第1号が完成します。 以後、硬式飛行船一般をさして「ツェッペリン」と呼ぶほどにこの飛行船は成功をおさめ、第一次世界大戦中には爆撃、偵察などに利用されました。




■堀越 恒二 氏(茨城県土浦市)
堀越恒二氏は、2008年5月19日、肺炎のためご逝去されました(享年87歳)。
心よりご冥福をお祈りいたします。

1929年(昭和4年)8月19日。茨城県・霞ヶ浦に巨大飛行船「ツェッペリン伯号」が舞い降りました。「君はツェッペリンを見たか」が流行語になり、日本中が沸いたと言います。
そのツェッペリン伯号の内部を実際に見た人が、茨城県土浦市の料亭・霞月楼の「堀越恒二氏(収録時、料亭・霞月楼会長)」です。
恒二氏は当時、小学二年生。将校や士官の宴席によく使われていた料亭の子であったため、気のいい士官に招待され、誰も近づけないはずの「ツェッペリン伯号」に乗せてもらったのでした。非公式な出来事のため、記録には全く残っていないはずでしたが、そのとき船内でドイツ人写真技師に写真を撮られたそうで、その写真は、ツェッペリン伯のお孫さんであるイーザ・フォン・ブランデンシュタイン婦人が所有しているそうです。

お店の番頭さんが引くリアカーに乗って出掛けた海軍基地で、恒二少年は何を見て、何を体験したのでしょう。
以下インタビューは、その堀越恒二氏の体験を伺った歴史的にも貴重な記録です。



  おぉ、坊主いたか。ツェッペリン飛行船に乗りたいか?


日本中が大騒ぎになった巨大飛行船・ツェッペリン伯号の来日。それは、同飛行船の世界一周飛行の途中だった。8月15日未明、ドイツ・フリードリヒスハーフェンを飛び立ったツェッペリン伯号は、シベリアを飛び越え、日本の東京までの1万1千キロを4日間・99時間40分で飛んだのだった。

霞月楼会長・堀越恒二さんは、当時7歳。少年は、ひよんなことからツェッペリン伯号に乗船できる幸運に恵まれるのだ。


日本人は入っちゃいけないしきたりだったんです。

それなのに、着陸の翌日、なぜ華月の坊主が入れたのかと言うと、ウチ(霞月楼)の菊の間で、ツェッペリン号来日の歓迎会をやっていたんですね。で、そのとき、夜9時でしたね。士官連中が25〜26人集まっていたところに、私が覗きに行ったんです。小学校の二年生、満で7〜8歳の頃ですね。

そしたら、顔見知りの副官がトイレか何か出てきて、私が敬礼したんです。子供心にそういうことを覚えてたんですね。

すると副官は「おぉ、坊主いたか。ツェッペリン飛行船に乗りたいか?」って言うから、私もハッキリと「乗る!」と答えたんです。「んじゃあ、明日の12時ピッタリに、あの格納庫の脇に来とれ」と言われて。

それで、翌日の12時に、うちの板前がリヤカーに乗せて連れていってくれた。

阿見を通っていったんですが、今では、どうやって航空隊の格納庫にまで入っていったか、その入った場所が全然わからないんです。格納庫と筑波山の関係を調べて、ここいらかなって、自衛隊の室長と一緒に探したりもしたのですが、分からなかった。

とにかく、リヤカーを押して格納庫に行ったら、夕べの副官が出てきて「おーい坊主、こっちだこっちだ」って呼んでくれたので、私は呼ばれるままに飛行船の所に行ったわけです。

リヤカーを押してきてくれた板前も一緒だったので「おにいちゃんも入れてやってくれ」と言ったんですが、「普通の服装ならまだいいけど、作業の板前の服着てんだから駄目だ」と断れたのをよく覚えてます。




この収録内容は2008年に『DVD/ツェッペリン伯号回想録〜飛行船に乗った堀越恒二少年〜』としてまとめられています。






DVDはツェッペリン倶楽部関係者、土浦市内の図書館映像ライブラリなどに寄贈され、土浦ツェッペリン伯号展示館にも所蔵されています。機会がありましたら、堀越恒二氏の熱意と優しさあふれる証言を、ぜひ実際の映像でご覧になってみてください。