1873年(明治6年)のこの日、石鉄県と神山県が合併して愛媛県が誕生した。
1973年(昭和48年)に県置から100年になることを記念して制定された。また、この年に最初の記念行事が行われ、「愛媛県章」「愛媛の歌」が制定された。
石鉄県の名は、石鎚山(石鈇山[注釈 1]、いしづちやま/いしづちさん)に由来する。ただし「鉄(鐵)」の字を用いたことについては、石鎚山の別表記の一つである「石鈇山」の「鈇」[注釈 2]の字を「鉄」[注釈 3]と混同したためではないかとされている[13][14]。
明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県に伴い設置された西条・小松・今治・松山の4県が、同年11月に統合され「松山県」が発足。明治5年(1872年)正月の稟請書によれば、人民の耳目を一新すべく県名を改めることとし、管内の中央にあって「四国第一ノ峻岳霊地」である石鎚山の名を採用すると説明されている[13]。明治5年2月9日付の太政官布告で「松山県石鐵県卜被改候事」と通告された[13][15]。
「鉄(鐵)」には多くの字体があり、明治5年2月9日付の太政官布告は「石䥫縣」(䥫:金偏に截)の字体で記録されているが[16][15]、「石𨯒縣」(𨯒:金偏に韯)[17]を用いるものも多く見られ、県の廃止時には「石鐵縣」の字体で記録されている[18](『太政類典』には「石䥫」を「石鐵」に修正する書き込みがある[19])。他に「石銕縣」[20]と記すものもある。現代の文章や事典・データベース等では標準字体(新字体)である「石鉄県」が多く用いられるが[21][注釈 4]、固有名詞部分で正字「鐵」を採った「石鐵県」も用いられ[22]、愛媛県地域では『愛媛県史』をはじめとして「石鐡県」の字体を用いる例が見られる[13][23]。
- 1871年(明治4年)7月14日 - 第1次府県統合により新谷県、大洲県、吉田県、宇和島県が統合され、伊予国南部に改めて宇和島県が発足。県庁は引き続き宇和郡宇和島(現在の宇和島市)に設置。また、喜多郡大洲大洲町(現在の大洲市)に支庁を設置。
- 1872年(明治5年)6月23日 - 神山県に改称(旧藩名を冠するのはふさわしくないという新政府の方針という説もある)。
- 1873年(明治6年)2月20日 - 石鉄県と統合され愛媛県が発足。同日神山県廃止。