話の肖像画 歌手・俳優 武田鉄矢<7> 吉田拓郎の衝撃「負けてるわ」



テキストを入力《フォークグループの仲間との出会いが海援隊を刺激していった》


「ヴィレッジ・ボイス」でいろんな仲間と遭遇していくんです。ウエスタンとかカントリー専門の奴(やつ)らもいれば、森山良子を倣って「カレッジ・フォーク」みたいな甘い恋歌も。その中にオリジナルを作る集団がいたんですよね。刺激されて私が「コピーつまんねえからオリジナル作ろう」と言ったんです。


映画「昭和残俠(ざんきょう)伝」シリーズの主題歌で高倉健さんの「唐獅子牡丹(ぼたん)」の替え歌とかを歌っていたんです。悪い奴をたたき斬った後、むなしく血刀を提げて去る背中に彼の歌声で唐獅子牡丹の演歌が入るんですよね。


これをパロディーで任俠(にんきょう)の世界を学生の世界に置き換え、「70年安保」で揺れる日本ですけれども「辞書とゲバ棒を秤(はかり)にかけりゃゲバ棒が重たい学生の世界」とかって。コンサートで歌うと大笑いしてくれるんですよ。全学封鎖をしているヘルメット姿の学生の前でもやりました。笑ってくれましたよ。


それが自分の最初の手触りで、少し演歌チックなものをフォーク解釈でやる手触りがして、そこから独自のものをやろうということになりました。


《高倉健さんとは運命的な出会いをすることになるが、それは後ほど》


フォークブームの波に乗ったんですけど、一番ありがたいところはローカルが主力になったと言いますか、東京のカレッジ・フォークや関西フォークのほかに、いろんな田舎でフォークのムーブメントが起こり始めた。憧れ続けた東京でしたが、ローカルが主役になるチャンスが出てきた。ローカルの青年が今まで歌謡界が使わなかった日本語を使って歌を作り始めた。それがフォークというムーブメントだったんじゃないかな。


やがて連携しないかという連絡が関西から来始めたんです。「ザ・フォーク・クルセダーズ」でプロだった、はしだのりひこさんが熱心で。上から目線がないんですよ。ムーブメントを一緒に起こそうと気安く付き合ってくれるんですよね。


関西ではフォークル、東京には森山良子、そして私が大学2年のとき、「広島商科大学(現広島修道大学)に吉田拓郎っていうのがいるらしい」という話が流れてくるんです。すると「広島フォーク村」というところから連絡が入り「自分たちでLPレコードを出したんだけど、少し買ってくれないか」って言うんですよね。私たちも大学2年のときに4曲入りのレコードを出したんです。それを何枚か引き受けるんで、交換でうちらのLPも買ってくれ、と。


当時、われわれの小さいコンサートのゲストにプロのフォークシンガーが来ていたんです。遠藤賢司とか「ジャックス」の早川義夫が安いギャラで。しかも泊まりはわれわれの家の居間。高田渡もその手で来るもんで。プロとアマの境界線が曖昧で、そのラインから福岡にはヴィレッジ・ボイスという集団がいるという話が広島フォーク村に入ったのかもしれません。


そこの村長が風呂敷にLPレコードをぶら下げて会いに来ました。うたい文句は「吉田拓郎はオリジナル400曲を持っている」。こっちは4曲しかない。そんな大学生がいるのかと、なめた気持ちで「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という長いタイトルのLPを家で聴きました。


若いってのは人の才能を認めないところが意地としてあるんですけど、ちっちゃい声で「負けてるわ」と言っちゃいました。聴いたことないんですよ。彼だけにしか作れない歌詞なんですよ。「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか…」って、ほとんど哲学なんです。メロディーもよくて、歌っているのが老人のような声をした青年だったんですよね。すごい奴がいるなぁ、と思いましたね。