「水に流す」・・・日本独特の慣用句。
日本文化独特の価値感覚なのかも知れない。
嫌な記憶を水に流せない・・・
「嫌な記憶が薄れないのだとしたら、嬉しい記憶も同じですか?」と尋ねたら、けげんな顔をされた。
最近、診察室には過去を水に流せないどころか、一瞬たりとも忘れられない、という人が多くやってくる。
個人的な怒りや悲しみは忘れないが、喜びや嬉しさは忘れてしまう。これは、この人に限ったことではない。
「神経言語プログラミング(略称NLP)」という心理療法やビジネスコミュニケーションの世界でも応用されているアメリカ発の理論がある。
あるとき、その専門家を大学のゼミに招いてレクチャーしてもらったことがあった。
NLPの詳しい説明は省くが、その中に「タイムライン」という考え方がある。
人間は頭の中にタイムマシーンのようなものを持っており、過去・現在・未来を自由に移動することが出来る、というもので、この時感じる内的、主観的時間を「タイムライン」とよぶのだ。
NLPの実際のセラピーでは、この「タイムライン」を
実際の直線として地面に描き、その上を前後に歩きながら過去や未来を体感する。
その時のレクチャーでも講師の誘導で床のフローリングの継ぎ目を「タイムライン」に見立て、学生が現在から過去、未来へと時間軸を移動してみることになった。
「では、過去にどんどんさかのぼってみましょう。あなたのこれまでの人生で一番嬉しかった瞬間まで、戻ってみるようにしましょうか」
そう言われて学生はおずおずと後ずさりを始めるが、なかなか一点で立ち止まることが出来ない。
「嬉しかったことと言われても・・・何かな・・・そんなことあったかな」と戸惑っているようだ。
殆んどの学生が同じような反応を示し、講師はやや焦りぎみに「ほら、大学合格、高校合格とか何か嬉しいことがあるでしょう?」と促しても、学生たちは首をひねるばかりであった。
講師が言うには、教科書的には、どこかの時点で立ち止まったら、そこであたかもその瞬間に戻ったようにもう一度、その喜びや嬉しさを体感してもらうのだそうだ。
勿論、そこで自分を肯定し、自信を取り戻してもらうのが目的だ。
「アメリカのレクチャーだと、嬉しかった時のことをありありと思い出して、ぴょんぴょん飛び上がったり涙を流したりする人もいるんですけどね」とのことだったが、
特に日本の人達は、自分自身の過去に関する良い記憶については、とりわけあっさりと水に流しやすい傾向を持っているのだろうか。
だとすると、この「タイムライン」を使ったセラピーは日本向きではない、ということになる。
香山リカ 精神科医
「しがみつかない行き方」より引用