宮殿を分断して道路を作った「日帝」

ソウルでは、日本統治時代に取り壊された朝鮮時代の建物や施設の復元工事が進んでいる。

いずれも朝鮮総督府が進めた都市開発に伴って、必要な道路を通すために撤去された王宮の建物などで、今、これらを改めて復元する意味は、日本による併合と近代化を否定し、日本によって破壊され失われた朝鮮王朝と大韓帝国の威厳を取り戻すためだとされる。

このうち、かつては東宮、つまり世継ぎの王子・世子(セジャ)や後宮、女官たちの住まいとして使われた昌徳宮と昌慶宮、それに歴代の国王・王妃の位牌を祀る宗廟はすべて隣り合わせになっていて、一帯は王族達がそれぞれの敷地の中を行き来できるようになっていた。

しかし、日本統治時代の1932年に、宮殿と宗廟の間を分断する形で道路が作られ、景福宮と東大門をつなぐ電車道が開通した。現在の栗谷路(ユルゴクロ)と呼ばれる幹線道路がそれである。当時、この道路の建設は、土地の気を断ち切り朝鮮王朝の血脈を断絶させるための日本の陰謀だと噂され、当時は市民や王室関係者の強い反対にあったといわれる。

王族の私有地を一般庶民に開放したのは日本

現在、宗廟と昌徳宮、それに昌徳宮の後苑(秘苑)は、ユネスコの世界遺産になっていて、大都会の真ん中にあるにも関わらず、都会の喧噪を離れて豊かな緑を楽しめるオアシスとして市民の憩いの場となっている。しかし「秘苑」の名前が示すとおり、王朝時代には王族しかその存在を知らない秘密の園だった。宗廟も李王家という一族の祖先を祀る祭祀の場であり、現在も李王家に繋がる子孫たちの先祖法要のために使われているに過ぎない。

こうした李氏一族のための広大な私有地を、一般庶民の手に戻したのはある意味、日本統治のおかげでもある。

そのうち昌慶宮は、大韓帝国第2代皇帝・純宗(スンジョン)の目を楽しませるという目的で1909年に動物園や植物園、それに博物館が作られ、日本統治時代には「昌慶苑」という名で一般市民に開放された。動物園は1983年まで存続し、往年のソウル市民にとっては最大の行楽地だったという。動物園が郊外に移転したあとは再び植樹が行われ、宮殿の庭園の一部となっている。

昌慶宮の一角にある鉄骨ガラス張りの純白に輝く大温室は、日本の皇室お抱えの造園家福羽逸人が設計したもので、1909年完成当時はアジア最大の西洋式温室と言われ、植物園の名残りを今に残す唯一の建物となっている。

道路はソウル大付属病院にいく近道

宮殿と宗廟を分断した道路は、結局2011年から12年の歳月と1000億ウォン(約100億円)に及ぶ税金をかけて、道路をトンネル化して地下に移し、その上に土を盛って昌慶宮と宗廟をつなげる工事を行った。

工事はこの7月に完成し、宗廟の北側の塀に沿って遊歩道が作られ、訪れた市民たちは日本が道路を作るために破壊した石垣の跡や、かつて昌慶宮と宗廟を結んでいた門(北神門)が再建された姿を見学できるようになっている。

ところで昌慶宮のすぐ向かい側にはソウル大学医学部付属病院の敷地があり、かつての大韓医院、のちの京城医学専門学校があった場所である。

かりに宮殿と宗廟を分断する道路がなかったとしたら、病院に行くには宗廟の南側を大きく迂回する必要があった。かつての昌慶苑動物園に行くにも同様だっただろう。

復元工事で、日本が作った道路を閉鎖し、宗廟と宮殿の間を埋め戻して完全に元の形にするのではなく、道路を地下トンネルに改造して残したということは、この道路の必要性とアクセスの利便性を、今のソウルの行政当局も十分理解している証拠でもある。

「朝鮮近代化の立役者」?高宗の業績を展示へ

もう一つ再建が進んでいるのが、徳寿宮の中にかつてあった惇徳殿(トントクジョン)という建物だ。1902年に完成した煉瓦造り3階建ての建物で、初代大韓帝国皇帝・高宗(コジョン)の国王即位40周年を祝う祝賀行事を行うために建てられた洋式宴会場で、第2代皇帝の純宗の即位式もここで行われた。

徳寿宮は退位させられた高宗が1919年に亡くなるまで私邸として使った場所で、その後、日本の手で美術館や西洋式庭園などが整備され、市民に公開された。徳寿宮の裏側に道路を通す必要が生じた際、道路用地に引っかかるとして、1933年、惇徳殿は取り壊され、その跡地は児童遊園地となった。

「日帝強占期に棄損された宮廷の地位を回復させ、大韓帝国の存在感を示す」という徳寿宮の復元事業の一環で、惇徳殿の再建が決まり、3年前に始まった再建工事の工期はこの8月末までとなっている。完成後には、「朝鮮近代化の立役者」だとされる高宗の業績を紹介する展示館になるという。

外国公館に逃げ込む癖があった国王

いま韓国では、朝鮮王朝第26代国王で大韓帝国初代皇帝の高宗(コジョン)は、朝鮮を近代化させるために取り組んだ先駆者であり、立役者として扱われている。そこまでして高宗を持ち上げるのは、日本によって併合され、日本の植民地になったことで韓国の近代化は達成できたという「植民地近代化」論を否定し、日本の力を借りなくても自力で近代化することはできたということを主張したいためでもある。

高宗といえば、1896年2月から1年余りに渉ってロシア公使館に逃げ込み滞在した、いわゆる「露館播遷」で有名だが、それだけでなく、フランスやアメリカ公使館などへの避難や亡命を前後7回にわたって画策し、「七館播遷」と呼ばれるほど外国の庇護を求めて右往左往した人物だった(パク・チョンイン著『売国奴高宗』)。そのために徳寿宮とロシア公使館の間を秘密の地下道で繋げ、いつでも逃亡できる準備を整えていたとさえ言われる。

平気で国民を裏切り、国を外国に売るような国王・高宗が、国の近代化のためにいかなる貢献をし、国のためにいかなる業績を残したというのだろうか。

日本統治時代に破壊された朝鮮時代の建物を復元することによって、まさに彼らがいう「日帝強占期」の日本による横暴を暴き出したいと思っているのだろうが、あいも変わらず歴史を材料にして日本に揺さぶりを掛けようとするその先から、すぐさま襤褸(ぼろ)を出している自分たちの姿には気づかないのだろうか。

270年間も荒地だった宮殿の何を再現したいのか

朝鮮時代の宮殿の復元と言えば、国王の正殿である景福宮の再建事業は1990年から行われ、いまは2011年から始まった第2次再建事業の最中だという。中に入ってみると建築途中で白木の木材がむき出しとなった木造建築をみることができる。

ソウル市内には、全部で5つの宮殿があるが、そこを訪れると案内板やパンフレットの解説文には、決まって「壬辰倭乱」つまり秀吉の朝鮮出兵(文録・慶長の役)で焼失したと書かれている。しかし、『朝鮮王朝実録』などによれば、民衆によって略奪・放火されたと明記されていて、李氏朝鮮の統治に不満を持つ当時の民衆が戦乱に乗じて焼き討ちしたというのが真相のようだ。

その景福宮だが、壬辰倭乱の際に焼失した後、1865年、第26代国王高宗の時代に再建されるまでの270年間、荒れ地のまま放置されていた。再建後も大火で焼失するなど、国王高宗がここで暮らしたのはわずか10年にも満たない。それをあたかも広大な建物群が最初から最後まであり、華やかな宮廷生活がここで繰り広げられたかのように見せるのは歴史を歪曲していることにはならないか?

学校を撤去してまで宮殿を復元させる意味とは

日本統治時代になって朝鮮時代の宮殿の古い建物はその多くが取り壊された。その跡地は、たとえば慶煕宮は京城中学校となり、第2次大戦後はソウル高校として使われた。徳寿宮北側にあった祖先の遺影を祀る施設・璿源殿(ソンウォンジョン)の跡地には京城第一女学校が作られた。しかし、いまこれらの学校の建物はすべて撤去され、慶煕宮は元の宮殿の建物が復元されたほか、璿源殿も再建のための準備工事が進んでいる。

さらにソウルの南、水原(スウォン)市の中心部には世界遺産になっている城壁・水原華城があり、その内部には国王が行幸や戦乱の際の避難先として使う行宮(あんぐう)があった。行宮自体は1900年に焼失しているが、日本統治時代にその跡地に総合病院や小学校の建物が作られた。しかし今、それらの建物はすべて撤去され、行宮が再建された。行宮と言ってもソウル市内の宮殿と形は同じで、宮廷ドラマのセットのような代り映えのしない作りとなっている。

都市の一等地を市民から奪い王朝に戻す愚

それにしても、日本統治時代にこれらの学校などがあった場所は、どこも市内中心部の一等地で、生徒や市民にとってもアクセスのいい便利な場所だった。

日本でも各地に残る城跡に地元の名門高校の校舎が建つというのは見慣れた景色だが、その校舎を撤去して、もとの城に戻したという話は聞いたことがない。

学校や病院など市民生活に必要なインフラを排除して、観光以外には何の役にも立たない朝鮮時代の王宮の建物に戻すというのは、いかにも合理性に欠けるが、それもこれも日本統治時代への恨みの深さ故(ゆえ)なのだろうか。