まず、夏の陣が始まる直前の全国の大名らの心境を考えてみよう。
大名らには戦意はまったくなかった。いくさが始まるとしてもそれは徳川対豊臣の対決であって「われらには何の関係もない」と思っていた。だれもが大事な世継ぎと家族を江戸に人質にとられているので、家康に命じられて渋々ながら大坂へ来たものの、いくさにあまり深入りしたくなかった。
というのも、結局のところ、どっちが勝つか分からない、つまりひょっとして豊臣が勝つかもしれないという思いがあったのだ。(冬の陣では家康の策略で堀を埋められるまで、豊臣側は互角に近い働きをしていた。)
今の史観では「家康が征夷大将軍になった時点で徳川が天下をとった」と思われている。しかし、当時の状況を同時代の視点で見ると、そうとは言い切れない。
豊臣に同情している(又は徳川に反感をもっている)大名らがいたのは確かだし、重要なのは、ほとんどの大名がどっちつかず、つまり、どっちでも良いが勝つ方につきたいと思っている日和見主義者だったことだ。
豊臣に心を寄せている大名らは、何かが起こって豊臣側が有利になればどっと豊臣につくだろう。すると、日和見主義の大名らも有利な方、つまり豊臣につく。日和見主義者というものはいくさの初めにあまり一方(徳川)に深入りしてしまうと、もう一方(豊臣)が勝った後、自害を命じられる危険がある。だから、のらりくらりとしてどっち側にも言い訳ができるようにせねばと考えるのだ。
それが分かっていたからこそ、徳川は容赦しなかった。豊臣に気がありそうな大名や戦意の薄そうな大名を責め立て発破をかけ、働きぶりを注視しておるからな、とすごんだ。
また、これまで早々と豊臣を裏切って徳川側についた大名らは何が何でも徳川を勝たせなければ自分の身が危ういことを知っている。それに、ここで奮戦して認めてもらい、領地を広げるか、もっと良い領地に移りたいという野心がある。
夏の陣の陣地構成はおもしろい。決して堀を埋められた大坂城を近々と取り巻いてはいない。ずいぶん遠巻きにして東と南に陣を敷いている。近づきすぎると危険だし、大名軍の人数が多くて(15万対5万)陣が広がってしまったのは確かだが。