コアラダライラマ

仏陀は無我ということを説かれた。諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静と説かれた。涅槃寂静というは諸法無我を達見したならば、煩悩の束縛から解放され涅槃寂静を得る事ができる、これを得るならば恒久的な幸せを得ることができると説かれた。

 

例えば、執着が生まれた時、「私に快いのだ」と言い、「私」と関係なく「快楽」の対象に執着するということはない。「嫌だ」という思いが生じる時、その対象に対し、全ての有情が「嫌だ」と思うはずは無い。「私に嫌なものとして現れる」と感じるのだ。

 

仏教ではそのような私は無いというのではない、有るが、でもそのような好き、嫌いの基となるような堅固で実体的な私(我)は無いというのだ。仏陀は長期に渡り、「無我」を説く事で、この執着の基となる私が本当にはないということを説いたが、これは執着を離れさせるために説いたのだ。

そして、「涅槃(悟り・解放)」とは自己の心の流れの中で「我」を捉えることが無くなれば、これを「解放」と呼ぶのだ。この煩悩から解放された時の心の福徳の資質を涅槃というのだ。

つまり、煩悩から離れるために、実体的な私(我)は無いという考え方を身につけなければならない、という論理である。

しかし、私はないと説明されても、よくわからないのである。

 

くまスッタニバータでの涅槃の説明。

カッパよ。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、ーこれが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない

ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。

このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。

普段の生活の中で、執着、欲望、貪りを克服できる機会は山ほどある。気をつければ、完全ではないにしろ、ある程度は抑制できる。

生き方の中でできる修行の機会を説明しないで、何がなんでも無我の考え方を身につけるべき、と最初に持ってくるのは間違いである。

だいたい、誰が実際に無我の考え方を身につけたのか。ダライラマ自身が無我の考え方ができていないではないか。「私の」チベット仏教を保身したいから、「釈尊は限られた弟子に密教の教えを説いた」と嘘をついているのではないのか。

 

トラ大パリニッバーナ経(釈尊の涅槃にあたっての最期の言葉)

向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。

宗教指導者は、自分の教団が後世に伝わるよう、最期まで腐心するものである。

しかし、釈尊は、教団が自分のもの、という考えは全くなく、無我の考え方を最期まで実践した。

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