ちょうちょダライラマの哲学・修道・結果の法話より

この地球には70億の人が住んでいる。全ての人が幸せを求め、苦しみを望んでいない。それなのに多くの人は望まぬ苦しみを味わっている。そして、その苦しみの多くは自分で作り出したものなのだ。自分さえよければいい、自分が、自分が、という気持ちが、結局は自分を苦しめているのだ。
人は、「存在が実体的に、つまりそれ自身の力で成り立っている」と思うところから問題が生まれる。
テロリストだって母親から生まれた人だ。その意識の中には愛の種が植え付けられている。人を思いやる心は必ず存在している。だから、自分ではなく全体をみる考え方をしなければならない。
無明のせいで、この空である存在を実体視して、それ自体で存在していると思い込んでいる。この無明は「物事が真実に存在すると執着する」根本煩悩である。
「ものが実体をもって存在している」ととらわれている意識 (無明)は智慧によってしか消すことは出来ない。

まず、大乗仏教の空と、釈尊の説いた空の違いは何か。

 

ゾウスッタニバータ

つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を<死の王>は見ることがない。

要点が「自我は空なり(無我)と観じ、自我に固執する見解を打ち破りなさい。」にあることは自明であろう。
釈尊の言う「世界」は自分の精神がとらえる世界であり、我々が普通考えるような物質界ではないことに注意すべきである。

 

後半部分「このように世界を観ずる人を<死の王>は見ることがない」。
死は「自分がこの世界からいなくなること」ととらえ、それを恐れる人が死を恐れるのだろう。しかし、自分が無我、つまり、無常であり、かりそめの姿であることを自覚したならば、自分がこの世界からいなくなることをどうとも思わないだろう。それが、「<死の王>は見ることがない」の意味ではないだろうか。

 

般若心経のような考え方だと、「死には実体がない、空である」などと片付けるのだろうが、これは貧弱である。

大乗仏教では、物質界それ自体も空と捉える。
自分だけでなく、「物質としての相手は幻のようなもので実体がない」と考えてしまうと、確かに怒りなどの煩悩は小さくなるだろう。しかし反面、無関心になったり、愛などのよき感情も小さくなる理屈になる。幻のような相手が苦しんでいるとき、本気で助けてあげたいという気になるだろうか?

従って、中観派における無明は有害な思想だと思う。「実体としての親は存在しない」は行き過ぎだし「何でもかんでも実体がないように見えれば解脱する」は単純すぎると思う。

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