私の家で購読している地方紙の新聞では、元旦から一つの特集記事を連載しめた。これまで豊かさを追い求めてきた打開世代が退職するなどして一線をしり除くのに変わり、躍り出ることになった団塊ジェニァ達。しかし彼らは厚い親の庇護の元に育てられながら社会に送り出されるや否や、格差社会に揉まれて行く先を見失っている。こうした彼ら団塊ジェニァ世代に、人生の道標を示そうというのがこの特集のようだ。
この特集の主題タイトルは「しあわせ検索、副題サブタイトルは「人生は楽しまなくては」となっているが、これを目にした時私は末世観とか終末観とかそうイう思いを持ってしまい、人とは哀しくも哀れなものと感じないではいられなかった。
確か童話に「鳥が魚になりたい」とか、「魚が鳥になりたい」という話しがあった。この童話では「鳥は鳥であるまま、魚は魚であるままが一番良いのだ」と結んでいた。今回の新聞の特集が載っている紙面上のコラム欄には「ネズミの嫁入り」の話が出ていた。ネズミの娘には、ネズミの婿がいちばんよいという話である。
それと同じように私達人が人生をどうあるべきかとするならば、人として生きることが人生の全てではないのだろうか。
しかし一般的には人生の目的というか主眼とかに、幸せとか楽しむことを挙げている。こういうことは丁度「鳥が魚になりたい、魚が鳥になりたい」というような発想ではないのだろうか。これは、人生を誤ってみている。
こういう風に人生を誤って発想することに、人生の狂いがある。それ故に喜怒哀楽に愛憎渦巻くことになる。それはマスメディアまでもがそういう発想でいるらしいのだから、その影響の程が知れよう。
しかし人らしく生きようということと、幸せに楽しく生きるということは、大変微妙な意味合いがある。人らしく生きるということは、幸せに楽しく生きたいからである。そして幸せと楽しみという目標があるからこそ人らしく生きられもするだろうが、しかしそれはまた落とし穴でもある。それが喜怒哀楽の原点になるといってもよいだろう。
これは幸せと楽しみを先にしようとするから、こういうことになるようだ。それに対して何はともあれ人らしく生きてゆこうとすることによって、結果として付いてくるのが幸せであり楽しみであるといわなければならない。
やみくもに、幸せや楽しみを求めるべきではないことだろう。