生命・・・・・それはすばらしい。嬉しく、輝かしくもある。
 しかしその一方、人に見られるように、そうしたすばらしい生命を持った人の何と悲しく忌わしく悲惨でまがまがしいことか。その両面を見るとき、人に限らず生命には一つの特徴を持っていることに気付き、それが人の持つ知恵によって忌わしい方向に向かっているように思われた。
 この一つの特徴とは、自衛本能である。別にいえば保身本能である。この自衛本能と保身本能によって人は、身を固めている。
 この固めかたは、ものすごい。知識学力で身を固めたり、土地財力で固めるばかりか装飾、スタイル。空間演出によっても身を固めようとし、更には血縁人種によっても身を固めようとする。その身を固めようとすること自体は自衛と保身であり、この自衛と保身のために人は他を退けようとしたり排除したりするようになり、 その果てに犯罪や戦争になる。
 先日新聞で極東軍事裁判でのインドのパール判事に関する記事に接したが、パール判事の法理に徹した絶対平和主義を思いながら、その絶対平和主義は法理的でも倫理的でも道義的でも理性的でもない、神秘性ある見地から見て欲しかったと思う。
 この「神秘性ある」ということは、宗教性を意味しており、かといって単純な宗教ではない。というのは宗教というのは、取り様によっては大変危険なものであり、 宗教には法理、道義、理性などが伴わないことには真の宗教と言い得ない。それに宗教は人の生きる行いを精神化させるもので、それは自衛と保身行為を精神化させることである。
 人は先にも述べたように自衛と保身が本能であり、法理も道理も道義も理性も民主主義も、そして愛すらも自衛と保身のためにある。今日よく使われるグローバル化、拡大拡張ということもそうであり、その基に自衛と保身の弱き者は格差の底に追いやられている。
 しかし人は、こうした自衛と保身に生きてはならない。
 それは人は知恵というものを持つ、社会性ある生命だからである。
 この社会性あるということは、他とのかかわり合いを知るということで、能動性と受動性に生きるということでもあり、そこに人の行いの精神性、宗教観的生命の資質が貴方に問われることになる。