悪い予感ほどよく当たるもので、その日神戸(甲子園)に着いたのは
夜も10時になろうとしていた。ライトバンの後部座席に座り続けた僕は腰が痛く
しかも途中殆ど休憩らしい休憩も採らずに走り続けたため、お腹も空いていた。
今の様に深夜ファミレスやコンビニが沢山あるわけでもなく、食事に困った僕らは
街中の古いお好み焼き屋で遅い夕食にありついたのは23時にもなろうとしていた。
しかし、この会社ではどうやらこれが「当たり前」のような感じで、さっそく明日から
新店の開店準備を始めるという。その日は既にある甲子園の寮で休み、明日朝から
須磨海岸の近くにあるテナントビルに行くことになっていた。
甲子園の寮。とはいっても6畳の部屋が3つくらいある民間アパートで部屋の中には
酒の一升瓶が転がっていて、まるで松本零士先生の「男おいどん」に出てくる
部屋のようでこんなとこで毎日寝ることになるのか。と目の前が真っ暗になった。
ひとり一部屋。なんてことはとんでもなく、6畳に2人~3人での雑魚寝状態のようだ。
言葉は悪いが「ああ、これがタコ部屋というものなのか…」と僕は納得した。
完全に「この就職は失敗だった」と初日から思い知らせれたのだ。
今の様に退職代行があるわけでない。相談する相手もいないので会社の辞め方もわからない。
人生で最初で最大のピンチの場面だ。ここで踏ん張れば男の子。なのだが
高卒で自分の能力に過剰に自信を持ちすぎていた僕は、ただ我慢すれば物事は好転すると
自分に言い聞かせていた。
須磨の新店のオープンに伴い、会社は店舗の近くにマンション…といっても公団のような
間取りの2DKの部屋を僕らに当てがった。僕ら…というかオープンする新店のメンバーの中の
男3人で2DKの部屋を使うことになった。また会社からは自炊を奨励されており
台所用品を近くのダイエーで買い求めて自炊を始めることになった。
誰が造るのか?一番年下の僕がその役目をあてがわれた。慣れない仕事と夕食の買い物と
準備は僕に大きな負担を強いた。自宅から通える職場をもっと慎重に考えておけば良かった。
と、思ったところでもう遅い。飯の恨みは恐ろしくて、「こんなものが食えるか」と
先輩から辛く当たられるのには腹が立ったが仕方がない。なにしろ仕事が出来ないのだから。と
文句のひとつも言いたくなるをひとりで耐えていた。
毎日の献立を考えるのも苦痛だった。スーパーの売り場に立ち尽くしたことも1度や
2度ではなかった。とにかくあの自炊生活で得たものはなにもなく、ただ苦痛だけだった。
社長が明治生まれの苦労人であったらしく、若いうちに苦労を知らなければ。という
事だったらしいのだが、そんなものはトラウマにしかならなかった。今ならば完全に
ブラック企業の仲間入りだろう。まだまだ昭和の時代にはこんな会社があったのだ。
食事が酷すぎるので僕は半年を過ぎた頃からお役御免となり、近所の喫茶店で
夕飯を採ることが多くなっていった。朝も昼も外食だったので、食べ盛りの僕の給料は
殆ど食費で消えた。故郷の電話では事情を知らない母が「貯金も出来ないのか」と
独り言ちていた。給料も早出や残業は給料に反映されない。休みも週1回で
息を吞むほど安かった。母に現状をボツボツ話してみると
「そんな事じゃ仕方がないから帰ってきなさい!」という事になり1年でこの会社を
去ることになった。学生の頃の万能感なんて当てにならない。「辞めたい」と上司に
お伺いを立てても「あ、そう。」で終わりである。多分こんな使い方じゃ退職者も
多かったのだろう。呆気なく僕は神戸から去ることになった。
神戸の思い出は灰色のモノばかりではない。夕食を食べに行っていた喫茶店で
バイトをしていたお嬢様がいく短大に通っていた娘(偶然なのだが彼女もMAYUといった)
と、三宮に2~3度デートに出掛けたりしたのは下らない思い出しかなかった神戸での
良い思い出になった。同じ歳だったから彼女ももう還暦だ…時間というのは容赦ない。
同じ店舗で働いていた浩美ちゃんとも三宮に「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」を
観に行ったのも懐かしい思い出になった。
そんな思い出の多い場所も1995年の阪神淡路大震災で須磨区は壊滅状態になり
見る影もなく街は変わった。
2000年に一人で訪れた時にそれを確認した時、とても悲しい気持ちになった。
喫茶店のバイトのMAYUはどうしただろう。喫茶店自体も営業しておらず、今は
テナントビルは取り壊されてマンションになってしまったようだ。
1984年2月29日……
敗残兵の気持ちを味わいながら朝一番の博多行新幹線に乗った僕だった。



