職場には僕のオヤジくらいの年齢の人が殆どで、一番歳が近い社員でも5歳上の大卒だった。
そんな環境にいきなり放り込まれた僕は戸惑いながらも仕事を覚えていくしかなかった。
工場勤務だったので、きちんとしたマニュアルが存在し、その通りに仕事を進めれば
大きな問題になりようがなかった。現在のように「一家に一台」パソコンがあるわけでもなく
まだ「パソコン」がまだ「マイコン」と呼ばれていた時代、キーボードにやや苦戦したが
直ぐに慣れた。
ただ、シフト制の勤務で、2週間に1週は夜勤番が回ってくる。
それも2人勤務なので時間を半分に分けて交代で仮眠を取ることも出来た。
仕事が立て込んでいなければ、本を読んだり深夜ラジオを聴くこともOKで
良い意味で「緩い」職場だった。特に夜勤時は偉い人(職長)もいないので
先輩の中には缶ビールを開ける人もいた。さすがに僕はそこまではしなかったが。
こうして僕の再就職は曲がりなりにも上手くいった。といえるものだった。
神戸から帰って来たことで、友人との交流も持てるようになった。
まだ19~20歳だったが平気で「村さ来」なんかに出入りして、飲みすぎて
公園のベンチで夜を明かしたこともあった。今考えれば最初の「就職の選択」を
誤ってしまった。と書いてきたが、商業高校卒でこの仕事には就けなかったので
それもまた運命だったのかもしれない。
この頃の僕は休みの日にはイラストボードにアニメキャラを描いてはよく遊んでいた。
水性色鉛筆を使って色を付けていくのだが、こんなおっさん風の男が
「魔法の天使クリィミーマミ」のキャラを描いているのだから、傍目から観たら
気持ちが悪かっただろう。絵は描けば上手くなる。というのは本当で中々の出来に
満足していた事もあった。
「魔法の天使クリィミーマミ」は神戸にいる時偶然観たアニメ番組で、絵の雰囲気が
「うる星やつら」に似ているなぁ。と思いながら観ていた。
(そりゃそうだ。制作会社がおなじなのだから。)
実家に帰って来てからは、生活も落ち着いて「アニメージュ」や「ふぁんろ~ど」などを
買い求めて眺める余裕も出来た。そうこうしているうちに職場でも
「あいつは絵が描ける」ということになり、「QCサークル」の挿絵や「安全衛生週間」の
ポスター描きになどに駆り出された。職場に玄人はだしの(というか玄人だった)方が
いらっしゃって、色の使い方やレタリングを教えてもらいながら描いていた。
「魔法の天使クリィミーマミ」は僕のオタク心を鷲掴みにした番組だった。
近所のレコード屋さんでマミのVHSビデオを予約するのは随分恥ずかしかったが
慣れとは恐ろしいものでしばらくするとなんとも思わなくなった。
このころ、安い給料から何とか工面しビクターのVHSビデオデッキを買ったので
高校の時の新聞部先輩(女の子ばかり)を集めて「マミ」の上映会なんかもやったりした。
太田貴子(ってわかるかな?)のレコードも買ってテープにダビングして聴いていた。
こうやって書いていくと懐かしい思い出だらけだが、僕の社会に出てからの
「青春の賭場口」はまさしく「クリィミーマミ」だった。
しかし、僕はひとつだけ大事な事を忘れようと、他の事に気持ちを集中させていたのだ。
それはさっちゃんとの事だった。
僕が神戸から帰って来たことをさっちゃんは知っているのだろうか?
帰ってきたら逢おうね。というあの時の約束を果たすべきなのか?
さっちゃんに電話をしようかと、何度も考えたが何故か勇気が出ない僕だった。
なぜあの時、勇気を出して電話しなかったのか。
のちのちまで一生後悔することになることを、この時の僕はまだ知らずにいた。









