MAYUと僕 | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

そう、僕には「癒し」が必要だったのだ。

 

1981年のクリスマスから年末年始にかけて、例のKちゃんの件で腐っていて

面白い事もなく、リリースされたばかりの長渕剛のLP「Bye Bye」をヘビロテで

ウォークマンで聴いていた。そこに「色黒の高橋由美子」が現れたのだ。高橋由美子は

当時まだデビューしていないので今思い返せば。ということであるが

可愛い女の娘だったことは間違いなかった。ここでは仮に「MAYU」と呼ぶことにする。

 

 

MAYUはIさんの演劇部の後輩で、僕より一つ年下だった。

演劇部に出入り自由だった僕(と、僕の友人たちは)は彼女が入学してきた時から

「あの娘、可愛いね」と誰ともなく話していた。最初は僕の友人のBくんとMAYUを

くっつけようとしていたのだが、何故かBくんは乗り気でなく自然消滅してしまった。

そもそもBくんは引っ込み思案で、皆の盛り上がりに乗って何かをするというタイプではなく

周りが先走ったので照れ臭かったのかもしれない。

 

Kちゃんに振られたばかりの僕は、Bくんとの仲を取り持つためにMAYUと話を

するようになって、僕の方が段々意識するようになっていった。

ポン友を集めて作っていたDJテープをMAYUに送り付けたりして僕等の仲は

徐々に近づいていった。1982年の春、僕らの草野球チーム「ドジャース」の開幕戦に

MAYUを招待したりした頃にはお互い手紙のやり取りをするようになっていた。

 

実はMAYUには他所の学校に「彼氏」がいることが後で分かったが、そんな事は

僕にはどうでも良かった。Kちゃんに振られてからの僕には、うまく言えないが

「歯止め」のようなものが効かなくなっていた。困惑するMAYUに僕は

「じゃあ僕は君の兄貴でいいから」と半ば無理やり押し付けたような形で

我が校内では僕と付き合っている。という「既成事実」をつくってしまった。

 

かと言って、僕らの交際は本当に「高校生らしい」といえるもので、手紙のやり取りから

交換日記と、僕の草野球の試合を見に来てくれる。というような微笑ましいものだった。

例の「白い本」で、その日にあった出来事を何ページも書き綴る。今考えると僕もだが

それに付き合ってくれたMAYUも、よく時間があったなあ。と思う。

おまけにMAYUは違う学年の校舎に交換日記を持ってくるのだから、少し罪なことを

させてしまったな。と思う。現実問題我がクラスの女子からMAYUは結構イヤ事を

いわれていたようだった。そんな事に気も配れない程、当時の僕には余裕がなかった。

 

夏休みになり、僕とMAYUは初めて遠出のデートをした。

場所は…福岡平和台球場だった。MAYUは西武ライオンズのファンだということで

僕は初めて女の娘とプロ野球を観戦することになった。

今のようにコンビニでササっとチケットを買う事は出来ない。平和台の試合は

福岡のプレイガイドで買うしかない時代だった。MAYUと天神まで出てきた僕は

あの井上陽水や長渕剛が福岡時代に唄っていた。という伝説のフォーク喫茶「照和」に

MAYUを待たせて、大急ぎで平和台球場へ走り(本当に天神から赤坂まで走ったのです)

 

 

球場周囲に屯していた「ダフ屋」のおっちゃんに

「今日の試合のチケット、指定席2枚売ってくれ」と高校生の分際で交渉を始めた。

「デートで彼女を連れてきた」と話すと、おっちゃんは「なら定価でよか」と太っ腹な

ところを見せてくれた。いまでこそドーム周辺にはダフ屋なんていないが

あの時代は粋なおっちゃんやおばちゃんが球場周辺にはいた。良い時代だった。

資料を手繰ると8月25日の対日本ハム戦で田淵幸一の18号、石毛宏典の14号などで

4-2でライオンズが勝った事になっている。平和台で3万人入ったゲームだったので

多分ダフ屋からチケットを買い求めないと観戦は出来なかっただろう。

随分綱渡りのデートである。若かったのだ。

 

 

帰りは奮発して、西鉄グランドホテルの前にあったロイホで晩飯を食った。

高校生にしては豪華なデートだった。どうやって費用を捻出したのか覚えていないが

とにかく、僕としてはデートと言えるデートはこれが最初だろう。と思う。

帰りの電車で、疲れたのかMAYUは眠ってしまった。寝顔を見ながら僕は

「オレは一体、何をしているんだろう」とふと、考えた。

MAYUには相変わらず。というか別に彼氏がいるわけで、僕がいくら足搔いてみても

この関係は変わらないのではないか…それは百も承知だった筈だった僕なのだが

何だかとても寂しく、むなしい気持ちを抱いていたこともまた、事実だった。