1976年11月1日月曜日、この年の秋の遠足はバスに乗ってのものだった。
何故曜日もしっかり覚えているか。というとこの日は1976年の日本シリーズ
第6戦が東京後楽園球場で行われた日だからだ。
遠足の行き先はどこへ行ったかは覚えていないが、この日のバスの中の事だけは覚えている。
この日、遠足バスに乗る我が6年2組は日本シリーズを今で言う「ライブビューイング」
状態になったからだ。
このブログでも前に書いたように、1975年長嶋新監督のジャイアンツは最下位に
おわったが、この年のオフ、ジャイアンツは日本ハムファイターズから強打者張本勲を
そして我が太平洋クラブライオンズから加藤初投手をトレードで獲得、外野の名手
高田繁を三塁にコンバートし、MLBで守っていた二塁に戻ったジョンソンが大活躍して
1976年セントラルリーグの優勝を成し遂げた。ちなみに同一監督が前年最下位で
翌年優勝した。というケースはNPBでは初めてだし、この後も誕生していない。
下の写真は、当時の少年野球ファン誰もが憧れた美津濃社製の高田繁選手愛用の
ワールドウィン・プロフェッショナルのレプリカグラブ。
この赤いカップマークに僕らはカッコよさを求めた。(筆者所有)
僕らのクラスは少年ソフトボールに入っている子が多かったので、男子の話題は
やはりプロ野球が多かった。ところが面白い事に好きなチームはジャイアンツという子は
あまり多くなかった。僕は広島ファンだったし、クラスのリーダー格の
ヒーコは中日ドラゴンズのファンで高木守道のファンだった。渋い好みである。
野村クンは野村克也にひっかけて南海ホークスのファンで、「野村」という苗字だけの
理由で自分からキャッチャーミットまで買ってしまっていた。坊主頭のアキラクンは
あまりにも坊主頭がクリクリでついたあだ名が「太陽」だったので大洋ホエールズのファン。
大阪から転校してきたオオバクンは阪神タイガースのファン。といったように、みんなが
ジャイアンツファン。ということではなくプロ野球については非常にリベラルな
クラスであった。
さて、遠足の日の話に戻ろう。誰にでも思い出があるだろうが、遊び疲れて
帰り際のバスでは子どもたちは静かになる。寝入ってしまう子もいて歌合戦が
出来るムードではない。その辺をバスガイドさんも考えたのか、喋るのをやめて
ラジオ放送を車内に流し始めた。ラジオから流れてきたのはジャイアンツvsブレーブスの
日本シリーズだった。この試合、ブレーブスが初回からの猛攻で0-7とリードしていた。
いくらリベラルなクラスでも日本シリーズはジャイアンツを応援している子は多く
遊んだ後の疲れと、敗戦濃厚のジャイアンツの試合内容にバスの中は静かだった。
試合は5回裏柴田勲の2塁打と、王貞治のセンター前に落ちたヒットでジャイアンツが2点を
返したところで俄然風向きが変わってきた。6回裏淡口憲治の3ランで5-7に
なった頃からバスの中がザワザワと騒がしくなってきた。ジャイアンツの追い上げに
盛り上がってきた僕らはラジオに耳を傾けだした。更に8回裏柴田の2ランで
同点に追いついた時にはバスの中は大騒ぎになった。まさに「ライブビューイング」である
この時の盛り上がり方は本当に凄かった。長くプロ野球を見ているが
ファンだけで球場以外であんなに盛り上がったことは後にも先にも僕には経験がない。
最終的には10回裏、高田繁のサヨナラヒットで8-7となりジャイアンツの勝利で終わった
第6戦は図らずも「ルーズベルトゲーム」となり僕の心に一生心に残るゲームとなった。
なお、この話には壮大なオチがある。次の日、前日の興奮が冷めやらぬ僕ら数人は
我が家に集まり日本シリーズ第7戦をテレビ観戦したのだが、アッサリとジャイアンツは
敗れてしまった。普通あの盛り上がり方なら次の日も勝つのがドラマなのに、あっさり
負けてしまうのは一体何だったのだろうか。「あの感動を返せ!」と言いたくなる
敗戦だった。
僕が小学校最後の学年を満喫しているちょうどそのころ。
我が家ではコペルニクス転回と言って良い出来事が起ころうとしていた…。