をもひでたなおろし

をもひでたなおろし

2024年に還暦を迎えた男のブログ

ようやく退院しました。
毎日暑いけれど、気持ちは絶好調です。

大谷翔平モデルのニューバランスのスニーカーを
争奪戦の末、手に入れました。
早速メルカリには転売屋と思われる輩が跋扈してますね。
欲しい人が手に入らない風潮ってなんとかならんのですかね。
これじゃ来年3月のMLB日本開幕戦のチケットが
思いやられます。飛行機もホテルも予約したのに。
チケットが手に入らないと話になりません。

(2024.7.26)

9月に入ると、夏の暑さは去り日々過ごしやすくなってきた。

学校は運動会の準備が始まり、残暑に悩まされる事もなく練習に励んでいた。

僕がラジオの深夜放送を聴くのは、数年前からの習慣になっていて

「オールナイトニッポン」だけではなく、「パック・イン・ミュージック」や

「唄うヘッドライト・コックピットのあなたへ」まで聴いていた。

 

特に「唄う…」は深夜3時からの放送で、「ANN」を聴いていて寝落ちした時にしか

聴けなかった。当時の「唄う…」は女性6人の個性的パーソナリティが

それぞれの特色を出したお喋りでトラック野郎が多かったリスナーの耳を慰めていた。

僕は長く水曜日の深夜を担当していた、岡雅子さんのファンだった。偶然に夏休みに

耳にした声と、選曲が他の曜日に比べて演歌が少なめ(だったように思う)だった事で

たまに夜中に起きだして、岡さんの番組を聴いていた。

 

そんな9月のある水曜日の夜の「唄う…」でこんな曲が流れた。

 

 

♪ だれに怒っていいのか わからないが
  おれの西鉄ライオンズ もうなくなった
  高倉がいた 豊田がいた 大下がいた
  中西がいた 関口がいた 和田がいた
  太平洋 クラウンと 名前が変わる
  その度に おれたちは とまどうばかり
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ

  どこのファンかときかれ 答える時は
  今も 西鉄ライオンズ そう答えるさ
  小淵がいた 仰木がいた 滝内がいた
  河野がいた 玉造がいた 城戸がいた
  生えぬきの 選手たち 悲しむだろう
  あのころの 西鉄は あとかたもない
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ

  そしていつでも強かった 日本一だった
  おれの西鉄ライオンズ 胸張ったものさ
  稲尾がいた 河村がいた 島原がいた
  西村がいた 若生がいた 畑がいた
  なつかしい サムライの 姿がうかぶ
  今もなお この胸の 血潮がさわぐ
  

  西鉄ファンよ 今こそみんな 立ち上がろうよ
  おれたちの手に ライオンズを とりもどそうよ
  あたらしい名前は たとえば九州ライオンズ
  心から 応援できるチームにしよう
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ
  かえせ かえせ ライオンズをかえせ ♪

 

この曲は「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」という曲らしく、島倉千代子の「人生いろいろ」や

この年1978年の前年に大ヒットした「GO!GO!掛布」を作詞作曲した

中山大三郎で(歌は黒田武士)福岡のKBCラジオでは6月頃から放送されていたらしいが

僕が聴いたのはこの時が初めてだった。

 

「福岡野球」の累積赤字は10億に迫り、現状打開の方法も見つけられずにいた。

監督こそ広島東洋カープの基礎を築いた根本陸夫に代わって瞬間的に連勝する時もあったが

この年もやはり指定席の5位~6位をキープする。という感じだった。

この曲を聴いて根本らスタッフは複雑な心境だったらしいが、「西鉄ライオンズ」の強さを

知るファンにとってこの曲は郷愁をもって一部のファンに受け入れられ、「市民球団・ライオンズ」の

夢を語るマスコミやファンを生んだ。

 

今考えれば、当時の状況でライオンズの「市民球団」化を求めるのは無理があった。

「広島方式」という形が俎上に上がってはいたが、福岡には東洋工業(現・マツダ)のような

基幹産業も多くなく県や市は当時の「福岡野球」対してけっして協力的ではなかった。

球団経営の苦しさを市民に明かすこともなく、独り善がりの球団経営を進めている以上

「市民球団」など夢のまた夢だった。福岡財界の一部には「福岡野球」を倒産させて

球団だけを貰い受けて運営しよう。という計画さえあったと聞く。そうなれば

中村長芳オーナー以下現経営陣に残るのは10億の借金だけだ。

この状態ではとても「市民球団」化など到底受け入れられるものではなかった。

前回も書いたように「買い手ならなんぼでもある」とファンは思っているらしく

7月に地元西日本新聞のコラムで書かれた「ライオンズは西武グループに買収され

福岡を離れる可能性がある」という記事も

「ライオンズが九州・福岡を離れるわけがない」と高を括ってきたのだった。

 

僕はと言えば、10月初めの運動会が終わり少し体調を崩していた。

今でこそないが、35歳くらいまで体調を崩すと扁桃腺を腫らし熱を出して寝込むことがあった。

「運命の日」であった10月12日、熱発し学校を早退した僕は、家に帰りついてそのまま

眠ってしまい夜中の4時頃に目が覚めてしまった。仕方がなくラジオをスイッチを入れ

「唄う…」にチューニングを合わせて聴くことにした。

 

ニュースの時間になりこの日のパーソナリティ・石渡のり子さんが読み上げるニュースの内容に

僕は心臓が止まるほど仰天した。

 

「クラウンライター・ライオンズが経営難のため、国土計画(現西武ホールディングス)に売却され

来シーズンから埼玉県所沢市にフランチャイズを移転し、「西武ライオンズ」として再出発することになりました」

 

今、なんといった?

 

僕はその日の夕方から眠っていたので、浦島太郎状態。目が覚めたら世界が変わっていたのだ。

 

この日の事を僕は今でも忘れられない。そして生涯忘れることはないだろう。

 

=つづく=