をもひでたなおろし

をもひでたなおろし

2024年に還暦を迎えた男のブログ

今年の正月明けから全く更新していなかったこのブログは不思議な事に
週1で更新している時より訪問者が多くなっている。というおかしな現象に首を捻っています(笑)
冬の間は鬱が酷く、また「チケット」詐欺に逢ったりしてテンションがダダ下がりでした。
少し暖かくなって、MLB東京シリーズも終わり漸く気持ちに余裕が出てきたので
ブログ更新をボチボチですがやっていこうと思っています。
定期的。というより「書きたくなったら書く」という感じの更新になると思いますが……。
                                     (2025/3/30)

あれから今年で40年になる。

 

1985年8月11日、日曜日。

当時の僕の仕事の公休は月曜火曜だったので、日曜の午後から職場に出掛けた。

例のオンボロスカイライン(10万円)を走らせて職場に向かったのだが

どうも吐き気がする。何か悪いものでも食べたかな?と考えたが思い当たる節がない。

仕事を始めてから、吐き気は更に酷くなりトイレに駆け込んだが吐けない。

そのうちお腹が痛くなり、先輩に促されて分析室の隅に置いてある簡易ベッドに横になっていた。

しばらく大人しくしていれば治ると考えていたが、痛みは益々増していくような気がする。

先輩が「おい、もしかしたらそりゃ盲腸じゃないか?」と言い出して

すぐに病院へ行け。という事になり帰宅する事にして、車に乗り込んだのだが

痛くてとても運転出来る状態ではない。公衆電話から母に電話して

事の次第を話し、迎えにきてくれ。とSOSコールを発した。

 

30分くらい経っただろうか。タクシーで母が来てくれた。

後席で寝転がって痛みを堪えている僕を乗せて、母は救急病院へスカイラインを走らせた。

今考えてみれば救急車でも呼べば早かったと思うのだが、とにかく痛くて

逆にそこまで気が回らなかったのだろう。

 

駆け込んだ救急病院はあまり評判が良くない病院で、一抹の不安があった。

案の定、待たされて痛みを訴えると若い当直医は「あーこりゃ盲腸ですね。すぐ手術しましょ」

と、あっさり言われたので、母は少し動揺していた様子だったがとにかく入院に必要なものを

家に取りに帰る事になり、その間僕は手術に必要な検査を受ける事になった。

所謂「緊急手術」扱いになり、若い当直医に若干の不安を抱いて僕は手術台に乗った。

 

手術を担当した当直医が言うには、かなり盲腸が腫れていて、もう少しで腹膜炎に

なるところだったそうで、危ない状態だったらしい。盲腸の手術にしては時間がかかり

当直医は2時間も格闘して盲腸を切り落としたようだ。麻酔をかけていたとはいえ

医者と看護師の会話は聞こえていて、腹の脂肪が邪魔して(といっても今の方が脂肪過多だが)

なかなか上手くいかないような会話を交わしていたのが僕の不安を煽った。

結局全ての処置が終わったのが夜中の1時過ぎになっていた。

 

朝目が覚めると、どう言うわけかF君が僕の病室へやって来た。

なぜ?と思ったが思い出してみたらF君はこの病院に事務職で働いていたのだ。

散々僕を冷やかして彼は病室を出て行った。チクショーあいつめ覚えてろ。

 

とにかく手術の後が痛くて痛くて仕方なかった。

トイレに行くのもやっとでそれほど盲腸の手術とは痛いものなのか?

手術した当直医の腕に問題があるのか?なんて考えてみたがそれは邪推というものだろう。

手術前より切った後の方が痛いなんて、何処か本末転倒だと思いながら

ベッドから起き上がる事も出来ず、ウンウン唸るしか無かった。

 

夕方になり、重湯だけの夕食を済ませて痛みに耐えていると病室の外からテレビの音が聴こえた。

羽田発大阪行きの日航機がレーダーから姿をけした。とアナウンサーが繰り返しニュースを

読んでいた。大変な事が起きてしまったんだ…と思ったがテレビのある部屋まで行く元気もなく

テレビの音だけを追いかけていた。朝になりまたテレビの音が聴こえ出した時には

500人近い人たちが乗っていた飛行機が墜落した事が報道されていた。

 

あれからちょうど40年になる今日。いまだに残る盲腸の傷跡を見ながら

そういえばあの夏も暑かったな…と思い出しながら御巣鷹の尾根で亡くなられた人達の

ご冥福を謹んでお祈りしたい。盲腸になった日と同じ日だという事もあり

この事故の事は一生忘れられない出来事になった。