あぁ、思い出す。
私は東日本大震災の生き残り。
「生き残り」と自分を評したくなるくらい、
あのときは彼岸と此岸を感じた。
被曝もかなりしている。
放射線を扱う業者が付ける、クリップ式の放射線計を配布され、いつでもどこでも装着して被曝量を測れと。
そして、それを「エコチル調査」とかいう実にふざけた調査のサンプルにしたいと、国からお達しが来た。
未来の日本のため?
未来の日本のために、私自身の身体を、人生を、差し出さねばならない理由がどこにある?
こんな傾いた、沈む泥舟みたいな国のために。
私は放射線計をぶち壊してドブに捨てた。
放射線計を装着して被曝量を計測することで、
今後何か健康被害があれば、医療を提供するということも説明書きには記載されていた気がする。
だから、一部のバカどもはそれをまるまる信じて、
自分を実験台にしたデータを国に送った(と思う)。
どうせ、何があっても「因果関係無し」とされるに決まってるのに、何とおめでたいおつむだ、と大学生の私は思った。
こんなバカばっかりだから、
原発なんて人間の手に負えないものを、ひとつしかない故郷に造られるのだと、私は心の底からすべてを嫌悪した。酷く吐き気がした。
自分の中に流れる血さえも嫌悪した。
あのときの記憶は、
昨日のことのように脳みそのひだ一枚一枚に刻まれている。
震度7の揺れの中、
うずくまるうちのばあさんを背負い、
貴重品を両手に掲げて全力疾走して、ぶっ壊れる家から逃げた。
火事場の馬鹿力というやつだ。
教訓もたくさん得た。
自分が死なないようにすること。
周りの人もなるべく死なないようにすること。
ただそれだけ。
私は知らなかったけど、
夫はそのとき艦で東北沖にいたらしい。
未曾有の放射線災害の可能性も十分にあった。
海はどこまでも続く。
ここからここまでなら大丈夫、なんて単純な話はない。
陸路だって、
放射線被害を恐れて郡山以北には物流が全く入ってこなくなった。
そりゃそうだ、みんな怖い。
だから私は、ここで「汚いもの」として隔離されて死ぬんだと覚悟していた。
今は大丈夫でも、あと数時間もしたら、私達も放射線障害で組織が腐って死ぬんだと。
でも、今、私は生きている。
健康かどうかと言われたら分からんけど、
とにかく生きている。
いろんな人に生かしてもらった。
それがとてつもない、重荷に感じることもある。
この話、今まで誰に聞かれようとも、
適当に、曖昧にはぐらかしてきた。
「大丈夫だった?」って、関東でよく聞かれた。
大丈夫なわけあんめ、と内心では吐き捨てながら、
表ではにこにこして曖昧にしてきた。
心のなかでは聞いてくる奴を呪っていた。
おめーらが際限なく、ガンガン使ってきた電気をつくる施設を管理しなかったせいで、私らは故郷を永久に失った。
何も知らねえくせに、何も知ろうとしてねえくせに。
そもそも、私らには何の恩恵もねえ施設だ。
原発が爆発するまで東京電力はすべてを隠してきた。
当時の政府のお偉方は「原発で汚れたのが田舎の福島まで良かったですね」と、表情変えずに言った。
いまだに放射線のことを言われるのが、
いちばん堪える。
私は福島県産のものは、食べていない。
いまだに、深い傷が残っていることは自覚している。
故郷の土に残る放射性物質みたいにね。
私は死ぬまで、
「大丈夫でしたか?」という問いには曖昧に笑い、
聞いてくる奴を呪い続けるだろう。
障ったらダメな領域って、あるんだよ。
でもね。
死んだらダメ、死んだらダメだよ。