もともと歌というのは

声だけで楽しむことだったはず

アカペラが珍しがられているけれど

原始時代やどこかの国の原住民さんは
声だけで表現されたり合唱していますよね

私が歌手になると決めたあのときも
「小学校2年3組の教室でシーンとした空間に私の歌声だけが響いていた」
歌声の他には何もいらなかった。
たくさんの拍手と歓声が鳴り響いた記憶。

わたしは19歳の頃から
歌うために
「アカペラじゃ披露できないから何かやらなきゃ」
という理由で
苦手な楽器を手に取り
無理に演奏していたりしました。
ギターを弾き始めたきっかけをこれまでもよく聞かれましたが
「アカペラじゃ披露できないから」と常に言ってきた。
なんで気づかなかったんだろう。
「披露できない」という「ない」からやむを得ずやっているものは
そもそも「ない」がスタートになっていた。
「ない」に何をかけても「ない」なのだ。

苦手意識を持ち続けたままの「ギター」と
歌うために生まれてきたと思っている「歌」を
掛け合わせていたんだなぁ。

大きな大きなアクセルのエネルギーが
もうひとつの苦手意識のブレーキのエネルギーに引っ張られていたのは間違いない。

本当は歌だけ歌っていたかったのだけど
ずっとそれに気付かないようにしていたのだろう
いや、ほんとは、気付きそうになっては気づかないようにまた暗示をかけてきた。

今日の昼ラジのアカペラは
それを教えてくれました

それが善し悪しというものはなくて
私にとって大切なことを気づくための流れがそこにありました。
あくまでただただ「私にとって」なのです。

20年前から
間違えながら焦りながらギター弾いて歌っていたとき
弾き語りしながら
歌よりもギターのことばかりに焦っていた
いつもいつもそうだったなぁ

好きなことと嫌いなこと
得意なことと苦手なこと

がひとつになっていたから
アクセルとブレーキを同時に踏み続けていた

ギターが嫌いなわけではなく
ギターそのものや音色は好きです。
ただ、
わたしは道具を使ったり機械を使ったり
自分以外のなにかを「扱う」ということが苦手、好きではないのだと気づきました。
最近は配信ライブなどで音のトラブルも多くあるのでお気づきの方もいらっしゃるよね。

それでもどうしてやりつづけてきたのか…
それは「ひとりが好きだから」
ギターを自分で弾かないと誰かに頼まないといけない。
機械を自分で操作しないと誰かに頼まないといけない。
これまでは機械の方はプロの方に任せてきたけど、もうこれからは一人でやりたいの。

「私がここにいること、それだけで世界に発信できる喜びの方が大きいから。」


最近はヒラメキやおりてくることが多く
そのまま動いているので
本当の自分に気づきやすい。

自分の本当の世界は自分が気づくしかない
気づけば気づくほど自分天国を創っていける。


誰に何を言われてもどうでもいいのです。
周りの常識やこうあるべきという概念では見つけられない。