5年生が終わると、親御さんの転勤に伴い少し遠くに引っ越し転校した友達がいました。6年生の夏休みに、友達3人で電車に乗って彼女の新しい家に二泊三日で遊びに行かせて頂いた事があります。
 その時に、可愛い雑貨屋さんに行き、旅の記念に定規とパスケースを選んで購入したんです。私にとっては、本当に滅多に滅多に無いことで、嬉しくて嬉しくて、二学期が始まって学校で数名のクラスメイトについ自慢したんですね。すると気づかない内に定規とパスケースは無くなり、その後、定規は折られた状態で、パスケースは私の名前が書いてある水着と落ちていたと見つかりました。
 盗まれたと言うよりは、自慢話に対する反応の一つだったんですよね。当時の私はそんな事は全く分からずに、自慢してしまった人の中に…なんてことは繋げもせずに、犯人探しを始めたんです😵
 先ず先生に相談し、帰りの会の時に時間を貰い、「私の定規を折った人、パスケースを水着と一緒に持って行った人は誰ですか?謝りに来てください。」ってな感じで…誰も名乗り出ることはありませんでした😥でも、ささやかながら武勇伝の一つだったりします😅

 時は過ぎて、中学2年生。家族でスキーに行った時に、私にとっては大きな大きなハプニングがおきたんです。自家用車のタイミングベルトがタイミング悪く渋滞中の登り雪道で切れて、車はレッカーされ、タクシーで宿まで行き、帰りはスキー板等抱えながら普通電車を乗り継ぎながら帰ってきたという事態を経験したんです😂
 クラスの前でそのハプニングを冬休みの思い出として発表する機会があって、話しただけでは気が収まらず、「大変だったね。」と共感して欲しくてまた同じ話題をクラスの友達にしたんです。でも返って来た言葉は、「(スキーへ行った事を)そんなに自慢したいの?」でした。
 自慢のつもりは無かったのですが、少しばかり成長していた私は、自慢話=しちゃあダメと脳にインプットしたんですね。

 それから、羨ましい、妬ましいとか人に感じさせないように、更には嫌な気持ちにさせない様に、嫌われない様に…って思考でアウトプットする様に変わって行き、6年生であんなに勇敢に言いたい事を言えていた私が、言いたいことを言う代わりに、いわゆる不幸自慢をするなんて方向に進んで行ったりもしたわけです。
 「不幸自慢」って言葉は随分と後になって知ったのですが、それはそれで誰かを幸せにする事では無かったんだな~😆

 左右に振り子を振りながら気付いた事は、自慢=❌では無くて、それは受け取った人の心の在り方で反応が違うと言う事。相手の心の状態を思いやって話す事が大切と言う事。そもそも、焦点がずれていたんですね~☺

 「言う気が有るかどうか=勇気」なんだと聞いて納得した事がありました。でもでも、相手の気持ちも考えずになんでも勇気だしてたら、人間関係にはマイナスにもなるんですよね。「勇気」の出し所を見極め、出し方に思いやりを含ませて…そんな「勇気のバケツ」を持ちたいものだな~と思います😁まだまだ育て中です🎵勇気は有無に有らず…深い😍

 自慢話には「良かったね😊」と一緒に喜べたら最高💒