「不の主体性」について掘り下げていくと際限がありませんが、常に自分自身の問題として日々取り組む事で、自らが深まり、その時に理解できなかったことが後に明らかになる事も多いのです。
ここで、その主体性を持って行じていくことについて少し考えてみたいと思う。
仏教を信じるという事は、倶舎論にある通り、「自分自身の心を浄める」事でありその為に努力する、即ち「行じる」事が求められるのであるが、一般的に信仰は単に「信じる」だけで、「行じる」という考えが薄い。特に「浄土真宗」では「信」に重点が置かれ、「行」は「自力」と考えて否定する傾向がある。もちろん「信じる」事は大切であるが、ただ信じるだけで救われると考えるのは、おめでたいのではないだろうか?それで良ければ何も口を挟む事は無いが、それをみんなに強制し修行を否定する事は傲慢以外の何者でもない。「不」というのはそういった自らの傲慢さを自ら反省して前向きに生きること以外に考えられない。
かつて(今でも一部あるが)仏教は厳しい修行を通して悟りを求めるもので、真実に目覚める為には何度も生まれ変わって修行を続けて初めて悟れるという考えが主流であった。
いっぱんじんは、そのような修行者に対して布施を行う事で、言ってみればおこぼれを頂戴するように幸せになれると考えていたのだ。
それが法然上人よって、そんな難しい行をせずともただひたすら念仏すれば御仏のお力により救われると説いたのだった。いわゆる「平等往生」である。
この事で、仏教は飛躍的に発展したが、同時に多くの問題点を抱えることともなったのである。
現代は民主主義時代であり全てが多数決で決められ、それが宗教の評価にまで影響を与えて、数の多い信仰が本当の宗教というように評価されがちになっている。
新興宗教が数を集める為になりふり構わず活動を続けているのも、数を絶対視することによるのだ。
仏教は自らの可能性を求めて取り組むものであり、釈尊遺言にある通り「自らを燈とし、法を燈として」生きること以外に仏教は無いと言える。
その「自らを燈とする」のが「主体性」であり「法を燈とする」のが「不」であると私は信じ日々念仏を行じているのである。