実は我々人間は、「暇」に耐えられない存在です。
何もしない、何も考えない、ただ存在しているだけ、という状態を恐れています。
例えば、必要もないのに、ついやってしまうことってありますよね。
スマホをダラダラ見たり、テレビをずっと見たり、ネットサーフィンをずっとやってしまったり。
それで時間を無駄にしたり、かえって疲れてしまう、なんてこともよくあります。
それを辞めたいと思っても、なぜ辞められないかというと、暇に耐えられないからです。
特にスマホが普及してからは、皆そうですね。
ほんの少しでも空き時間があれば、スマホをいじらずにはいられない。
瞑想をやっていると、この辺の心の動きが、よく見えることがあります。
一応瞑想中って、考え事はしないようにしているんですが、ナゼかすごく重要な事が思い浮かんだりするんですよ。
瞑想中なのに、どうしても考えなければいけない気がしてくる。
ホントですかね!?
そんなに重要なことってあります?
瞑想なんて、ほんの数十分ですよ。
その間くらい、そのことを考えなくたっていいじゃないですか!
にもかかわらず、どうしてもそのことを考えなければならない気がしてしまう。
しかし、瞑想が終わってみると、もうどうでも良くなっていたりします。
そのことを考えなくても、別に何も問題ない。
つまり、そんなに重要なことじゃなかったんですよ!
じゃあ何で瞑想中は、それが重要なことだと思うのか。
それは、何もしないで座っている、ということに耐えられないからです。
だから、何か重要なことを作り出しちゃうんです。
重要に見えるのは、実は騙しなんです。
本当は重要じゃないんです。
何もしないことに耐えられないから、重要だということにしているだけです。
瞑想中の心の動きを観察していると、心は何も考えないことを、とても居心地悪く感じているのがわかります。
何かないか? 何か考えることはないか?
手持ち無沙汰なんだよ!
何もしていないのが怖いんだよ!
そしてネタを探し回り、見つけると、
あ! コレはとても重要だ! 考えないと!
と喜んで飛びつこうとします。
瞑想中そんなことが何度も起こるので、人の心は何もしないことが本当に嫌なんだな、と実感できます。
なぜなんでしょう?
いろいろ理由は想像できます。
例えば、
何もしないと、自分の心の中にある見たくないモノを見てしまうから、外の刺激に意識をそらしたい、ということもあるでしょう。
他にも、近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルトが
われ思うゆえにわれあり
といっているように、何かを思ってないと、自分が消えてしまうと感じているのかもしれないです。
それが怖いのかもしれません。
いろいろな理由が考えられます。
まあ落ち着くんでしょうね、何か考えていた方が。
例えそれがネガティブなことであろうと、何かで頭を埋めておきたい。
そういう性質があるんでしょう。
空っぽにしておくのではなく、情報を入れて、刺激を入れて、考えていたほうが楽なんでしょう。
しかしそれって、常に情報や思考に巻き込まれ、自動的に何かを考えさせられているだけ ともいえます。
それが悪いというわけではありません。
けれど、そればっかりになってませんか?
自動的、反射的に、ただ情報や思考に巻き込まれ、流されるているだけで、一日が終わってませんか?
自分で自覚的に、考えることを選択できていますか?
マインドフルネスでは、無自覚に情報や思考に巻き込まれた状態から抜けることが重要だ とされています。
そこから抜けている状態を、気づいている状態、マインドフルな状態 といいます。
もしマインドフルな状態でいられれば、ついやってしまう辞めたい習慣を辞められたり、物事に自覚的に、主体的に取り組んでいくことができるでしょう。
そして、自分で生きている、という実感が湧いてくるでしょう。
そのためには、一見全然関係ないように見えますが、なんにもしない暇状態に耐えることからはじめて見るといいかもしれませんね。