『────自分が、』
あの後。男は何かを言いかけて、しかしぐっと堪えて留めた。
その一瞬、どきりと胸が高鳴った。
いきなりのことでびっくりしたのだ。突然大きな声を出すから驚いたではないか、馬鹿者、とかそんなことを叱るみたいに言ってしまったと思う。
男は、すみません、と言って乗り出し掛けた姿勢を戻した。
しかし姿勢を正したフリこそしても、その後は何かを喉につっかえているような歯切れの悪さが別れるまで残り続けていた。
その様子に、私は何を思っただろう。
男の顔を思い出す。
男の声を思い出す。
ああ。それはなんて、懐かしい。
今日あったばかりの出来事だというのに、出てきた感想はそれだった。
縁側に座り、いつものようになんとなく夜空を眺める。
その席は常にひとり。
私は、ただ静かにそんな誰かのことを思い出しながら傍らのお酒をぐいぐいと喉に流し込む。
『────自分が、』
ふと、あの言葉の続きが気になった。
その後に続くのが空白なのだと知りながら、貰えるのならどんな言葉があるだろうと夢想する。
そう、だって言える言葉なんてひとつもないのだ。
持っている者が持っていない者にかけられる言葉なんてひとつもない。それを言ってしまっては、そのままの関係ではいられなくなるのだから。
優しい男だったから、間違っておかしなことを言うのではとヒヤヒヤしたけど。それも堪えてくれたようで安心した。
『────』
木霊するように反復する脳裏の声に、思わずため息を漏らしてしまった。
そうとも。そうですね。私はきっと、孤独なのでしょう。
だけど、それを実感したことはないのです。
確かに私には何も無いけど、それを寂しいと思ったことはないのです。一度だって、一瞬だってないんです。
それは辛いことでしょうか。
いいえ、辛くはありません。悲しいことでもありません。だって私は、私が一番に欲しいものを初めから持っているのだから。
…………それが何かは言えないけれど。
でもどうか、そんな顔をしないでください。
私のために、辛い顔をしないでください。
それを見ていると、私はひどく悲しくなってしまう。
「────御前さん。起きてください。風邪引いちゃいますよ」
肩の感触にぴくりと瞼が持ち上がる。
気だるい身体を奮い起こして、とりあえず目線だけで隣の声の主に目を合わせる。
そこに居たのは、白いドレスの金髪碧眼肌色多め、我が家随一の露出(強)こと四季姫だった。
「…………姫か…………」
見て分かることを噛み締めるように口にする。
そんな私を見て、彼女も、はい、あなたの姫です、と余計なボケを重ねつつも乗ってくれた。
……驚いた。どうやら私らしくもなく、酒を呑んでいるうちに眠ってしまっていたらしい。
ふぅー、と大きく深呼吸をして空を見上げる。
うん。そこまで時間は経っていないか。風邪をひくなどと、大袈裟なのだこいつは。
「…………すまんな。すぐに片付けて休むよ。先に行っていてくれて良いぞ」
「片付けは私がしておきます。お疲れのようです、今は先に休んでください」
「…………ん。すまんな」
「いいえ。あなたの姫ですから。どや」
胸やけするからそう繰り返すな、とは言わないでおいた。
その夜、夢を見た。
誰かが私の手を取って、私は振りほどこうとするのに、どうしても離そうとしなくて困る夢。
それが何でか、どうにも嫌という程でもなくて、自分は一体どうしたのだろうと不思議に頭を悩ませるというよく分からない、物語のない夢物語。
男の顔が思い出せない。男の声が思い出せない。男の名前が、思い出せない。
あれは司、だっただろうか?私の知る男なんてあまりいた記憶がないから、そうだったような気もしないでもない。
とにかく男は私の手だけは確かに握っていて、決して離そうとしてくれなくて。
そうしていつしか、私は言うのだ。
『わかったよ』、と。
諦めたように。誓うように。その手を確かに握り返した。