空は暗く、雲の見えない一面の闇。
頬を撫でる冷たい風が心地良い。
星月の明かりだけが頼りなこの場には、しかし並び咲く桜の木々がその光に対抗するように輝いている。




拙いはずの夜の視界は悪くなく、むしろ不自然なくらいによく見える。これなら足下の心配もない。
風は冷たいが緩やかで、そう寒さらしきものも感じさせない。時期にもよるのだろうが、少なくとも今ならしばらく座っていてもそう冷えないように思う。
静けさを目に彩る桜の木々は、風に吹かれては散っていく。
現実どうであるかはさておき、その儚い姿は好ましい。盛者必衰。輪廻転生。物事は輪転するのが道理である。




かくして、見上げるは月。見下ろせば花。
風情は二つも重なれば上等だろう。




その景色を手頃な家屋の屋根の上から眺めることしばらく。
私はそこに足りないものは無いか、余計なものは無いかと風情の足し引きを試みていたものだったが、結局アラは見つからなかった。




「……良い場所だ。やはりここだな」




「はぁ。何がですか?」




隣からした涼しい声にふと目を移す。
色の抜けた私のそれとはまるで違う、美しい茶色の髪が長く揺れている。
その横顔はこちらに向こうとはせず、私の見ていたものを探しているのかキョロキョロと景色の方を観察している。




一言で言うなら、そう。


女、という言葉を正しく連想させる女がそこにいた。




「うん。近々、あの男を酒に誘おうと目論んでいてな。司だ。ご主人様だ。
目星は付けていたのだが、細かい場所は決めていなかった。その話だ




「酒盛りする場所を選ぶのに付き合わされてたんですか私?」




女、ことゆうさんは不満なのかそうでないのか、あまり表情を変えずに問いかけを続ける。
もう少しわかりやすいリアクションをして欲しい。いや、私が言えたことではないが。




「そうなるな。不満か」




「不満だって言ったら?」




「知らん。許せ」




そう切り捨てて、腰に提げていたとっくりを外し、アイテムポーチから四角い木造りの、およそ一升分の容器を取り出す。

それを見て彼女は何か言おうとしたようだったが、そのリアクションが来る前に手に持った容器にとっくりの中身を並々と注いで、それから彼女に向かって差し出した。




「………………お酒、よく飲むんですか?」




「頻繁に、という意味ならそうでもない。酒を飲むのには理由が必要だ。どんなに些細なことでもそれがあるとないとでは味が変わろう」




はぁ、とそれを受け取りながら首を傾げる。




それから自分用の枡にも酒をついで、一言。




「乾杯」




「かんぱーい」




手に持ったそれを軽く持ち上げる仕草だけして、二人の酒の席は静かに開かれた。













『酒は簡単に飲むべきものではない』




私とよく似た顔の女が、確かそんなことを言っていた。




それは人から人に与えられるべき報酬、対価であるべきだと。お金と同じで、溺れてしまえば取り返しのつかなくなる甘い蜜だと。
そう、あのだらしなさの権化みたいな女はのたまった。




なるほど、確かにそれはそうかもしれない。私も酒を飲むのに理由はあるべきだと思う。




特別は特別でなければならない。
贅沢は普段とは一線を画した位置にあるものでなくてはならない。
贅沢を毎日してしまえば、それは贅沢でもなんでもない日常だ。




それではあまりに勿体ないというものだ。哀れというものだ。
美味しいものを食べても美味しいと感じられないなんて、人生の20割くらいを損しているのでもはや死んで生まれ変わるしかあるまい。反射的かつ、ひと思いに首をはねてしまうかもしれない。




人は贅沢を好むべきであっても、贅沢に慣れるべきでは断じてない。
外食は多くても週に一回。それもできるだけ安上がりな、お料理の味そのものより帰り道に言い合う文句が楽しい系の三流じゃんくふーど店に留めるべし。




普段の生活を贅沢にし続けていくと、いざ特別な時に特別なものが見当たらなくなる。
そうなると身の丈に合わない高級お料理なんかに手を伸ばすしかなくなってしまったりする。


で、そういうお高く留まったお料理屋なんていうのには必ずと言っていいほど『普段が贅沢』な連中がのさばっている。


これは私個人の感性なので他人に強要はしないのだが、そういう人間の脂みたいな生き物は見ていてとても不愉快になるので、単純に真っ二つにしたくてうずうずするからダメなのだ。
さすがの私も、つい手が滑ってノリで逮捕されたりしたくはないのである。




「大分比喩とかオチとかが滅茶苦茶でしたけど言いたいことは分かりました。
食事で例えるあたり本当に好きなんですね、食べるの」




「そうか。作るのも好むぞ。
というか、食事が好きなのは当然でしょう。3大欲求らしいからな。拒食症でも食べなければ、という使命感はある」




「使命感と好きとは違うと思いますけど」





「その辺りは考えようだ。必要なものを受け入れるために好きになる、というのも技術なのですよ。
欲するものは当然好む。まぁ、そう思ってもできない輩もいるようだが」




「寝るのが好きとか、あんまり聞きませんけどね」




「欲求という形が見えずらいから言わないだけでしょう。私は好む。食事よりは俄然好きだな。
できれば10年寝て3日起きる程度が理想的だと思っている」




「何か辛いことでもあったんですか?」




「おかしいか。なら性欲の話にするか?男は好むぞ、私は




「うわー。じゃあお願いします」




「そこはお願いしますなんですか???
ふむ。まずあれだな。誤解のないように初めに言っておくと、私は女も好む。
何かを愛でるというのは、それを求めて始まり、許すことに落ち着く。つまり結果や報酬を期待しない好意や依怙贔屓のことを言う。
であれば対象のカタチは極論なんでも良くt「あ、ほんとに始めないでいいんで」




「む、そうだな。今のは性欲とは違ったな」




「そういう問題でもないです……」




はぁ、と頭を抱えてため息を漏らす。
あまり冗談ばかり言っていても疲れさせてしまうか。少し自重しよう。




ぐい、と仰ぐようにして酒を飲み下し、空になった容器にすぐに注ぎ足す。
ついでに隣の女の手元を見ると、そちらはまだ半分も減っていない。


その時一度彼女と視線が重なると、その目は何やら困った風に私の事をじっと見つめていた。




「……何か?」




「ここで酔っ払わないでくださいよ?」




「そこまで飲まない……いや、まぁそういうこともあるか。すまんな、その時は笑って流せ




「もう飲むのやめてください」




と、早業のように私の手元からお酒を奪う茶髪の女。。。




「あっ馬鹿よせやめろ冗談です酔いません。まだいけますから返してくださいお願いします」




深々と頭を下げる。。
それを見て彼女は、はぁー……、と大きな溜息をつきながら酒のたっぷり注がれた容器をゆっくりとこちらに向けて返してくれた。




「良い女だ。無意味に勿体ぶるより、話が早い方が男に好かれる」




それを受け取りながら軽口を叩く。
が、彼女はそれには無反応で、既に足元に広がる桜の木々に目を落としていた。




「…………」




習うように私も景色に目を移す。
静かな風に揺れる木々の枝、花の音にケモ耳を傾ける。




そうして二人、時の流れるのをしばし忘れた。












見上げれば月。見下ろせば花。







────この景色を、『綺麗ですね』と言葉にするのは簡単だけど。




実際のところ。そのような風月を解するほどの甲斐性が、私の懐にあっただろうか────?











さぁ、と柔らかな風が肩にかかった髪を撫でつけ過ぎていく。




綺麗な景色。絵画のような風景。映画のワンシーンのような良いショット。
それを愛でるのに必要な風情を、私が持ち合わせていた覚えはひとつもない。




だが、これを良いものだと感じる。こうであったらいいと思う。
こんな景色を見て、温かい何かを胸に感じる誰かがいることを、尊いことだと知っている。




『お酒を呑むなら、理由が必要でしょう』




あれの言葉をもう一度思い出す。




あれはあれなりに出来た女だ。
私などより誰かに寄り添って、他人の心に触れた女だ。
 



理由が必要だと女は言った。
特別なことをするのには、特別な理由が必要なのだと。




「────なるほど。
確かに、ここで呑む酒は、良さそうだ」




気が付けば、そんな感想が口から漏れていた。






視界の隅にかろうじて映る女の様子に変化はない。




独り言だと判断したのか。いや、実際独り言だが。
二人してしばらく黙っていたが、彼女は先程から同じようにずっと景色を見下ろしている。




人が二人でいるのだから、もう少しお互いの存在に気を遣ってもよかった気がするがそこはそれ。今はこの景色が大事だった。




…………やけにおセンチな自分が珍しくて。
誰の目線か、つい、それを許してやりたくなったのだ。









「…………付き合わせた。この辺りで切り上げましょう




そう言って先に立ち上がる。


それから隣の女に目を下ろして、




「…………………………( ˘ω˘ ) スヤァ」









「……………………………………………危ないぞ?」




届くことの無いツッコミを漏らしてから、これどうしたものかな、と頭をかくのだった。