ベトナムに住んで、そして今までいろんな国の人と働いたことある経験などから改めて思えるようになったことは、日本に生まれて日本人として生きることができるということはこの地球上において宝くじに当たったようなものであるなということ。
どこのどの国に生まれてくるよりも、自分次第でより多くの大きなチャンスにも恵まれているのではなかろうかとさえ思えるようになった。
それなのに日本の中だけで苦しんで悩んでストレスに押しつぶされて、そうして最後には自死を選ぶ若者が多いということが本当に心の底からもったいないと思えるか。
そーんなに そこまで悩んで苦しんで死にたいくらいなら、肉体労働である程度の金を貯めてアジアの近い安い国からでもいいから一人旅をしてみなさいと心から言いたくなってしまうか。
自分も若いときになんとか日本の社会のレールに乗ろうとして、高校卒業後浪人宅郎をして少しのバイトをしながら受験費を貯めて大学受験までして落っこちて途方にくれまくったものであった。
今ではこのとき、大学に行けないでフリーターになってしまい、金を貯めて一人でオーストラリアへワーキングホリデービザで1年間行って本当に心から大学に行くよりもずっと良かったなと思えるようになった。
楽しかった思い出というわけではなく、働きながらもなんとか旅行もしたいと思いながらフルーツピッキング農場などに働きに行って泥沼にはまり、もがきながらもこのまま帰ってたまるか!と思い、ニュージーランドにまで情報を頼りにフルーツピッキングをやりに行ってまた働いて終わり、またまたこのまま帰ってたまるか!と思いタイ経由にしてカードの借金で飛行機のチケットを買ってタイに着いた翌朝に女二人組に声をかけられ、のこのことついて行って車でドライブを連れて行ってもらい、最後別れてしばらくすると現金全てがスられて無くなっているという。
そうしてその後はさらにカードの借金でチャンマイまで行って、山岳民族訪問トレッキングツアーなどに行ってかなり感動してバンコクに戻って来て明日が帰国というときにカード賭博詐欺というものに会って借金が3倍ほども膨らんで帰国することとなった。
そんな経験もここベトナムでも30才過ぎであろう日本人の男の人が同じような手口で騙されている人が会い、自分はまだ若いときでまだよかったな!などと思えたものであった。
今ではこれもある種の事故・経験で失敗でもないのかな?などと思えるようになったのでヨシとしている。
金・金・金を追い求めずに若いときにはより多くの経験や体験を重視して行動をしていれば、それがいつかは思い出となるものかなと。
色々なことをやっていれば たくさんの挫折や失恋などもすることであろうが、ときが流れて年をとっていけばその挫折類も思い出となって 失敗ではなかったな!と思えるようになるものなのかなと
日本人はもうみんな自立して、田舎に行って自給自足をするのが一番いいのではなかろうか?などと思える。
病気になったらどうするんだ? とか金が稼げなかったら暮らせないじゃないか?
云々とできない理由を探してやらないで、悩み続けて死を選ぶくらいなら少なくともやってみたほうがいいであろう。
生まれてこのかた日本人というものは、とにかくなにかにすがり頼りつづけるようなシステムとなっているようにいつからか思えるようになった。
生まれてお医者さんの言うことを聞いて、母子手帳を頼ってその通りに育てましょう‥‥そうして保育園や幼稚園に入れてやがて小学校→中学校→高校→大学→就職企業で言われた通りずっと働き続ける云々となってゆく。
病気になったら、病院に行って薬を貰って悪くなったら入院してもっとお薬を貰って投与されて逝くまでもうまかせっきり‥‥‥
若いときに働きながらも将来〇〇どうこうどうなったらどうしましょう‥‥‥と不安になりながら働き続けて終えてしまう。
自分も2回ほど会社員というものを退社した経験があるが、やはり辞めようと決めて退社届を社長の前に持っていく!ということだけでもかなりのエネルギーを必要とする。
1回目のときは転職のために退社をしたのだが、2回目のときはこの会社でこの社長のもとに居続けたら絶対に後悔するな!という確信の元にもうそのときは30で憂鬱な気持ちでもあったのだが、
またハノイに戻って半年間ベトナム語を本気で勉強して、その後ホーチミンに移って半年間勉強を続けそこで現地採用の仕事を探す!!
ということをその会社を辞めるためにも本当無理やりに決めて実行した。
ただ、嫌だからその会社を辞めてまた同じ種の仕事で転職したのではなにか情けないと思えたので、無理くりに昔ベトナムを目標にしようとしたら転職後すぐにハノイの五つ星ホテルの現場に勤務ということで約2年を過ごしたのだが、やはりハノイじゃなくてホーチミンを目指そう!ということにした。
なら、初めからホーチミンで勉強すればいいじゃないか?
と思うであろうが、まだそのときには後輩と上司(二人とも自分より後に転職してきてすぐハノイに飛ばされてきた人)がいて、おまけに一時帰国と聞いて帰国したのでまだたくさんの荷物が置きっぱなしであった。
まぁそうして後輩の部屋に居候しながら語学学校を探し、まずは3ヶ月間あるベトナム語学校に通い、その後に別の大学内にある語学学校に住み込みで通った。
大学内の寮に住み込み、大学内に屋台のような店や食堂や普通一般の家などもあって実に安く生活ができてしまい面白いものであった。
まぁそうして、半年後には旅行を兼ねてローカルバスでまたバックパッカーとしてゆっくりと地方を周りながらホーチミンへと下って行った。
ホーチミンでその大学を探し当てると、ビザのために一旦ベトナムを出る必要があったのでお隣のカンボジアに旅行を兼ねて行きアンコールワットもそのときに初めて見ることができた。
そうしてホーチミンに戻って来て、また勉強を続けたのであるがちょっと前に建設ラッシュであった現場が見当たらなくなってきており勉強しながらも徐々に不安になってきてこれはこのまま勉強続けていてもダメだな‥‥‥
と悲壮感が襲ってくる。
そうして学校に行きながらも、これで挫折して帰っても意味がなくなってしまうからオートCADを習おう。
ということを決めて、現地のコンピュータースクールに行くとWindowsから勉強しないとならない!
と言われ、それまでパソコンのパの字も知らなかったのでそのWindowsを習いながら、毎日タイピングソフトでPCの打ち方を勉強しに行き始めた。
今ではそのAutoCadのほうは忘れてしまったが、このPCとタイピングの練習はものすごく助かったものであった。
そうして結果は一つの会社に履歴書だけ持っていったのだが、返事も来ないで終わり挫折して帰国することになる。
当時はインターネットなるものも始まったころで、ネットで仕事を探すなんてことは考えも及ばない時代であった。
そして現場の仕事以外はやらない、長く滞在したいからといってダラダラと時間を無駄にしないということを決めて来ていたので丁度1年が経ったころに陸路で再びカンボジアそしてタイへ入って東北をゆっくりと旅行しながらバンコクに行って日本に帰国したものであった。
このときついでにHCM大学生の娘に失恋というおまけつきで挫折感一杯で日本に帰国。
日本の実家に帰って来てからは昔新聞の切り抜きを摂って会ったところの建築現場への派遣会社を訪れると、わりとすぐに神奈川の小田原の辺りに住み込みでの現場を紹介されて働き始めた。
そうして次の都内の現場のときに再びアパートを借りて一人暮らしをしながら、現場に派遣で仕事に行っていたものであった。
途中同じ現場で知り合った人が自分の派遣会社の給料を聞いてきて教えると『それは安いから、オレがもっといいところ紹介するから変わったほうがいいぞ!』と言われ、変わると本当に給料が何割もアップすることができた。
そうして31か2くらいのときにその派遣での仕事で現場へ通うようになったのだが、派遣で行くようなところは大手会社への派遣で行くことが多く、本当に大手と社員時代の小さな中小の社員の意識の違いなどというようなことに驚かされたものであった。
そうしてベトナム語もすっかり忘れ去ったころに、ベトナムへ派遣の仕事で行くことになりハノイ約1年後→ダナン約半年後→HCMとなってイェンさんと出会って一緒になることになってカレーやを始めるようなこととなった。
そうして改めてあのときに仕事が見つからないで挫折して戻って本当に心からよかったぁ~と思えたか。
日本からの派遣で来ているので、日本で働くよりも多くもらえる上に部屋もあれば賄さんもいて食事も出て洗濯もしてくれるという。
この派遣会社も途中、最初のハノイの段階でかなりのピンハネをしていることが判明して派遣会社を変えることでまた給料もかなり上げることに成功した。
なにごとも誰かに学校や会社や政治家や医者などに、頼ったり任せたり希望したりしたままだと絶対に損をするから我慢はしないということをポリシーとつづけてきた。
そんなふうに過ごしてきたので息子たちにもそんな学校の勉強なんかを懸命にやってもどうせ忘れて将来には役に立たないよ!と教えている。
ただ知識はすごく大切で、自分からいろいろな本を読んだりして、なんでも知ろうとしないと騙されるから自分で自分の勉強はしろよ!とも教えている。
うわぁ~ 今はここまできている‥‥‥ でも、やっぱりできると自分んは思える。